日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

巌谷小波『こがね丸』題字の彫工と同書制作進行のスピード感(付『こがね丸』の活字書誌)

このところ生田可久が三村竹清に語った「明朝ほり」の話の中で明朝を得意とする版木彫刻師として言及されている安井台助(臺助)について色々と調べている過程で、『巌谷小波日記』に安井台助の名が記されていることを知った。先日「幕末明治期の版木彫刻師安井台助が白百合女子大学小波日記研究会翻刻の『巌谷小波日記』に載っていた」に記したように、博文館「幼年文学」の第2として刊行された『猿蟹後日譚』の印刷者が安井台助であり(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1168259/17)、明治24年の日記で数回言及されている。

実はその前年、明治23年にも巌谷小波と安井台助の関わり合いがあったようだ。

明治23年12月)廿六日 晴 / 午前桂舟へそれより尾崎ヲ訪ヒ黄金丸題字ヲ安井へ送る(『巌谷小波日記―翻刻と研究』120頁)

これは12月26日の午前、まず『こがね丸』の表紙絵・挿絵を頼んでいる武内桂舟のところへ行き、続いて題字を頼んだ尾崎紅葉を訪問し、尾崎から受け取った題字を安井台助へ送った、という記録であろう。腕の立つ版木彫刻師であったらしい安井が「筆意彫り」によって尾崎の題字を版木に彫り上げたということになろうか。

巌谷小波『こがね丸』題字(の版下)を尾崎紅葉が書いたというのは初耳で――出来上がった書籍に紅葉の名が示されていないからであろう、国会図書館の書誌(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1919765)にも国文学研究資料館の近代書誌・近代画像データベース(http://dbrec.nijl.ac.jp/BADB_CKMR-01226)にも見えない――、とはいえひょっとして著名な話なのか?とGoogleブックス検索とscholar検索をかけてみたところ、数少ない言及が加藤理『駄菓子屋・読み物と子どもの近代』青弓社青弓社ライブラリー 10」、2000)に見られるようだった。

加藤理氏は『巌谷小波日記〈自明治二十年 至明治二十七年〉翻刻と研究』(桑原三郎監修、慶應義塾大学出版会「白百合児童文化研究センター叢書」、1998)執筆者の一人。『駄菓子屋・読み物と子どもの近代』を近所の図書館で借覧してみると、なるほど「巌谷小波日記」が大いに活用されているようだ。そこで加藤理『駄菓子屋・読み物と子どもの近代』〈第2章「児童の世紀」と読書の喜び〉の「5 子どもの読み物の誕生―『こがね丸』の出版」(72-88頁)を手掛かりに、『こがね丸』関連の件を『巌谷小波日記―翻刻と研究』から拾い出してみよう。すべて明治23年「庚寅日録」の12月分からの抜き書きである(強調は引用者、改行箇所は「/」で示し、加藤2000が拾っていない項は冒頭に「※」を付した)。

三日 雨 / 博文館へ行 新太郎と新著の議熟議(119頁)

七日 晴 / (夜)七時千駄木町ニ森鷗外ヲ訪フ 序文依頼(119頁)

九日 晴風 / 今夜妾薄命批評会 社中総会 大橋来会 表紙の事相談(119頁)

(十日「原稿十六枚四章」、十一日「原稿四章十六枚 博文館へ書状」、十二日「原稿四章十六枚」、十三日「原稿四章十二枚大尾」〈119頁〉)

十四日 晴 / (午後)二時後桂舟へ行 水蔭来合ス 三時出で博文館に新太郎ヲ訪フ四時帰(119頁)

「子どもの読み物」として企図された博文館「少年文学」シリーズ「第一」である『こがね丸』は、本文中に細かく大量の挿絵が配されている。原稿全体を書き上げたタイミングで、挿絵のテーマや数量を武内桂舟に指示し、挿絵を含む構成・編集の詳細を大橋新太郎と擦り合わせたのではなかろうか。

(十五日「午後こがね丸清書」、十六日「終日在宿 こがね丸清書 鷗外へ催促」、十七日「午後こがね丸清書」、十八日「午後こがね丸清書」、「十九日こがね丸清書」〈119-120頁〉)

16日に小波から催促された鷗外が序文を書き上げたのが12月何日になるのか、日記からは読み取れないが、刊行された『こがね丸』の序文の末尾には、確かに「本郷千駄木町の鷗外漁史なり」と書かれている。

廿日 晴 / 午前清書 十二時後梅吉ヲして博文館へ送らしむ(120頁)

※ 廿三日 晴 / 十一時国文社ヨリ宮田来ル / 午後一時出で尾崎ヲ訪ヒこがね丸表紙ヲ頼む(120)

国文社は『こがね丸』の印刷を請け負った会社(奥付の表記は「京橋区宗十郎町十番地 山口竹二郎」のみ記載で社名は無し)。おそらく、12月20日午後の早い時間に清書原稿を受け取った博文館の担当編集者(大橋新太郎?)は、活字サイズの指定など最低限の朱を原稿に書き入れ、当日のうちに国文社へ入稿しているだろう。23日11時に国文社の宮田が小波を訪問しているのは、ゲラ刷りを渡して著者校正を求めたのではないか。

仮にこの推定通りだとして、最終的に130頁総ルビになる分量の入稿原稿(日記によれば60枚分)を受け取ってから著者にゲラ刷りが渡るまで丸70時間程度――丸3日経過していない――という日程はとんでもない速さと思うが、青梅市文化財総合調査報告『活版印刷技術調査報告書』(青梅市教育委員会、2002)68頁「文選作業」の項によれば「文選工は一分間に30字拾うことが求められていたが、多くは15字から20字位の間であったらしい」ということなので、400字詰原稿用紙なら平均的な作業者でも20~27分程度で活字を拾ってしまえるようだ。

ルビを拾うのは植字作業のときになるので、400字詰原稿用紙1枚分を版に組むまでに余裕を見て文選30分植字30分の合計1時間の作業を要すると仮定してみよう。すると延べ60時間で60枚の原稿が組みあがることになる。2班で作業を分担すれば、実働35時間程度でゲラ刷りまで終えることが出来たというわけだ。

※ 廿五日 晴 寒 / 午前九時桂舟方へより広告下画ヲ博文館へ送りそれより川田家を訪問(120頁)

※ 廿六日 晴 / 午前桂舟へそれより尾崎ヲ訪ヒ黄金丸題字ヲ安井へ送る 十一時後眉山ヲ訪ヒ食事 一時帰宅 / 国文社宮田来訪(120頁)

仮に先ほどの「23日11時に国文社の宮田が小波を訪問しているのは、ゲラ刷りを渡して著者校正を求めたのではないか」という推測が正しかったとして、26日の要件はどういったものだっただろうか。著者校正の(印刷所への)戻しであったか、あるいは校正戻しは既に済ませていて、例えば「黄金丸題字」の進捗確認などの話か。

丗日 晴 / (午後)三時大橋来りこがね丸持参八部(121頁)

巌谷小波『こがね丸』の初版部数がどれほどだったか不明だが、130頁総ルビ挿絵多数という小説が、活版印刷の時代に、清書原稿入稿から10日ほどで本の形になっているという制作進行のスピード感には、ただただ、驚くばかりだ。


国文学研究資料館の近代書誌・近代画像データベースで拾われている書誌に、活字サイズに関する注記が示されている場合がある。巌谷小波『こがね丸』の書誌(http://dbrec.nijl.ac.jp/BADB_CKMR-01226)にも、鷗外の序文について備考欄に「○他序     / 2/少年文学序 本郷千駄木町の 鷗外漁史なり ※三号活字で組む。」という記載が見える。

残念ながら、森鴎外による『こがね丸』序文に、三号活字が使われているところは無い。「本郷千駄木町の」は四号四分アキ、「鷗外漁史なり」は二号ベタ、そして序文そのものは二号二分アキで組まれている。

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森鴎外による巌谷小波『猿蟹後日譚』序文(#ndldigital 画像を加工)

巌谷小波『こがね丸』に、三号活字が使われているところもある。せっかくなので、使用活字全種が出現する見開きを示しておこう。

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巌谷小波『こがね丸』1頁(#ndldigital 画像を加工)

この画像のように、本文1頁目に、二号、三号、四号、五号、六号、七号と『こがね丸』に使われている活字が全種類揃っている。

表題「こがね丸」が二号二分アキ、「漣山人著」と「上巻」が三号、「第一回」は四号、本文四号四分アキ、柱「少年文学」は五号、ノンブルが六号ベタ、ルビが七号となっている。

この当時の「号数活字」サイズはまだまだ十分に規格化されていないので、七号活字は五号活字の縦横半分の大きさではなく(半分よりも少し大きい)、また四号活字は五号活字の1.25倍よりも少し大きいが七号活字の2.5倍ではない(――このあたりの状況は「近代日本の活字サイズ―活字規格の歴史性」*1に記した――)。

そういった事情があるため、ルビ活字が組まれた行を観察すると、七号の二分でアキを調節することができず、更にイレギュラーな込物を用いて調整しているところがあるように見受けられる。

仮名の書風に注目しておくと、国文社の二号活字は東京築地活版製造所『二号明朝活字書体見本』(明治26年版――これはmashabow氏がウェブ資源として公開してくださっている――)などに見られる――少なくとも明治12年見本帳まで遡ることができる――、築地二号(細仮名)を多少アレンジしたものであること、同じく四号活字は明治18年印刷局活版部『活字紋様見本』型であること、更に五号活字は同じく『活字紋様見本』型(及び明治10年の紙幣局型)と所謂築地体前期五号型の「調合混植」型(一定の比率でブレンド)になるようだ、というようなことが判る。のだが、近代書誌・近代画像データベースに登録される書誌としては、活字の大きさ(とおよその組み方)が適切に拾われていれば、それで十分ありがたい。本項末尾のこの段落から「高木元「『浮雲』 書誌」の〈組版書誌〉に寄せて」に至るような話は、別途展開したい。

*1:内田明「近代日本の活字サイズ―活字規格の歴史性(付・近代書誌と活字研究)」国文学研究資料館研究成果報告書『近代文献調査研究論集』第二輯(国文学研究資料館、2017)所収