日本語練習虫

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庄司浅水と徳永直の面談

昭和五十五年十一月に発行された庄司浅水『愛書六十五年』中の「文化産業の地」(pp.144-146)に、かうあった。

発展に次ぐ発展をつづけた博文館印刷所(いちじ十大雑誌を擁《よう》し、雑誌王国を誇っていた講談社の発行する九大雑誌の印刷・製本を一手に引き受けていた)は、大正十四年(一九二五)十二月、大橋社長の経営する平版印刷専門の精美堂と合併し、共同印刷と改称したが、翌年一月から二か月間大ストライキが勃発した。野田醤油の争議などとともに、わが国争議史上、特筆大書される共同印刷の大争議である。当時争議団の代表者の一人だった南喜一も、戦後は国策パルプKK(現在の山陽国策パルプ)取締役会長はじめ、いくつかの会社の重役を兼ね、資本家側を代表しているのも、時代の変遷とはいえ、おもしろい現象である。
当時共同印刷の植字工で、南喜一らとともに争議団の幹部の一人だった、徳永直がものした不朽の名作『太陽のない街』(改造社刊)は、この争議を題材としたものであることはあまりにも有名だ。戦時中、私は『共同印刷五十年史』の編纂参考資料として、争議当時の模様を尋ねるため、三軒茶屋の彼の家を訪ねたことがある。当時彼は本邦活版の鼻祖、本木昌造の伝記『光をかかぐる人々――日本の活字――』(昭和十八年河出書房刊)を執筆中だったが、争議のことにふれると、「私はあのころは、まだ下っぱだったのでよく分かりません」と、多く語ることを好まず、うまくかわされてしまった。太平洋戦争のまっさい中だったので、止むを得なかったのだろう。

庄司本人も記してゐるんだども、大橋専務にも徳富蘇峰にも可愛がられ、五十年史の編纂に携はってゐる庄司浅水――、さういふ人物から戦中に訪問されて、多くを語れるわけがない。
庄司が惚れ込んでゐた大橋松雄専務が急逝せず、ゆえに庄司が何らかの形で共同印刷に残り、戦災によって失はれた五十年史原稿の代りに六十年史なり何なりの取材で徳永を再訪することがあれば、ひょっとすると、徳永も『光をかかぐる人々』続編のため大橋家への取材申し込みのツテを庄司に求めることができたかもしれねぇ。
などと想像してみる。
日本近代文学館が所蔵してゐる、徳永の『光をかかぐる人々』創作メモには、博文館創業者である大橋左平の名もあった。
庄司が訪ねた際、徳永は「前篇」を執筆中だったのだらうか、「後編」だったらうか。