日本語練習虫

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野村純一「思想としての口承文芸研究」中の関敬吾と田中於莵彌

過日「徳永直知人のS司書と徳永がS17に通ったS子爵邸のS文庫」へのコメントにて森洋介さんからご教示いただいた、野村純一「思想としての口承文芸研究――関敬吾先生を巡って」(『口承文藝研究』30、2007)の複写が、国会図書館から届いた。
昔話の研究において、在地「生活者としての昔話研究」と在外「研究者としての昔話研究」との間に大きな隔たりがあり、生活域内に閉ぢこもった研究を地域や国家を横断しての比較研究へと開いていくことができないきらいがあった、そのことに関敬吾が危機感を持っていた――と野村。
グローバルな視野からの比較研究という関の志がはたして何処から来たものかと問う野村純一の私的な見解が、関と田中於莵弥との交流から発したものとして、さらにその交流開始の時期についてかう示される。

さて、田中於莵彌氏の事績に向けましては雑誌「東洋の思想と宗教」第七号に「略年譜」「著作目録」が収載されて、その全容は明らかになります。本会会員坂田貞二氏のご苦労もあります。これにもとづいて推察すれば、関、田中の交流はおそらく一九三八年(昭和十三年)の頃からではないでしょうか。田中氏はその年の二月から東京大学助手として文学部に勤務され、大学の図書館に頻繁に出入りするようになったからです。一方の関先生は、いうまでもなく、柳田國男先生のご慫慂によってそこに通い詰めていたからにほかなりません。以後、お二人は携えて終生学問研究の道を歩まれることになるわけです。ただし、右の指摘はあくまで私の推量でありまして、詳しくは次の世代のかた/゛\の調査を俟ちます。それには現在、群馬県邑楽郡千代田町赤岩の光恩寺こと、長柄行光氏の処に田中於莵彌氏の資料が一括保管されていることを申し添えて、この件を終わりたく存じます。

いやいや野村先生、関敬吾は東大の図書館の司書である状態で、柳田の知遇を得ますから。
http://d.hatena.ne.jp/uakira/20091219
田中於莵弥が昭和十三年頃に大学図書館通ひを始めたなら、確かに司書の関敬吾と出会ふ機会があっただらうとは思ひますが。