日本語練習虫

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間宮武『六頭目の馬――間宮茂輔の生涯』

間宮武『六頭目の馬――間宮茂輔の生涯』(1994、武蔵野書房)ば借覧。
健康上の問題で軍人はあきらめるが実業家にさせようといふ父の期待に背き、文学をやるために慶応の予科を中退。鉱山に職を得るが、あるきっかけで山を降ろされて灯台守となり、島の生活の行きがかりで妻子を得るが捨て去り、同志たり得ると信じた若い女と共に半非合法左翼活動を経て地下活動に潜り、逮捕投獄から転向出獄。
出獄後、豪徳寺に住んだ間宮茂輔は、海軍報道部で8月15日を迎へる。
間宮茂氏から茂輔『党員作家』の記述ば重引。

曽根は何か考えているようで何も考えていなかった。
切れぎれな号泣を聞いた。だれか洟をすすった。誘われたように新たな嗚咽が起っている。曽根は坐ったまま半身をねじくらせた。と、そこには…曽根の背後には、いつ来たとも知れぬ男たちが、焼け砂のうえに正座して泣いていた。(略)
その時になって、曽根は自分の腕に巻いた海軍の赤い腕章に気がついた。曽根は大本営の判が捺してあるその腕章をとろうとした。が、何故かおもい切ってそうすることが出来なかった。羞恥が曽根を刺し貫いた。(略)
この記憶は―転向から戦争協力へとつづく曽根の敗北をさらに裏づける新らしい汚辱の材料として残された。

様々な敗北を積み重ねた、間宮茂輔。
間宮武氏の筆によると、昭和二十年十二月三十日の「新日本文学会」創立総会を、徳永直らの隣人であった間宮茂輔は、かういふ具合に迎えてゐる。

その総会に、茂輔は出入り口に近い一般席で見知らぬ人たちにはさまれながら出席している。
演壇には、茂輔の親しい人たちの顔が並んでいた。
秋田両雀、江口渙、蔵原惟人、窪川鶴次郎、壺井繁治、徳永直、中野重治、藤森成吉、宮本百合子の八名であった。
茂輔に発起人の話はもとより、この会の事前の相談も、勧誘も何ひとつなく、会の準備は着々とすすめられていたのである。
同じ豪徳寺に住む中野からも、徳永からも一言の話しもなかった。
「ぼくは、新日本文学には入れてもらえないのかね」
道で会った中野をつかまえて、こう質すと、中野は、
「いや、そんなことはない」
ふだんから、めったに表情を出さない中野が、茂輔にはひどく無愛想にみえた。

蔵原が中心となって創立されたこの会の発起人の資格を「帝国主義戦争に協力せずに抵抗した文学者のみ」と前提としたことを、茂輔は知らなかったのであろうか。
発起人が並ぶその演壇に、平林たい子も、佐多稲子も座っていないのだから、まして海軍報道班員などという肩書をはずしたばかりの茂輔が座れる筈はないのである。

徳永が演壇に向かうのを見ると、茂輔は静かに背を丸めて会場を出た。
―徳永の国策礼賛の満州視察記はどうなのだ、いや、何よりもあの『太陽のない街』の絶版宣言はどうなのだ。―
茂輔は、そんな徳永の過去をあげつらうような愚痴が口の先に出かかってくるのを辛うじて押さえていた。
徳永とは家も近くで、二度目の細君の時は茂輔が仲人を買って出たのである。永いつき合いであった。いや、徳永だけではない。発起人の誰ともみんな永いつき合いであった。プロレタリア文学運動をいっしょになってやって来た仲間であった。

いろいろと切ないことが書かれてゐさうな、間宮茂輔『党員作家』と『三百人の作家』も、そのうち読むべと心覚。
ちなみに、茂輔の甥でサラリーマンから作家になった間宮武氏が「間宮茂輔の生涯」といふ副題の書に「六頭目の馬」といふタイトルをつけたのは、茂輔が自らを競走馬に擬えたと思しき小説『六頭目の馬』に由来する。茂輔が「幾山河こえは来つれど道通し」さ、かう書いてゐるといふ。

『六頭目の馬』はいつでも六頭目あたりを駆っている競走馬に主人公をたとえたもの。つまり十頭の馬ではじまった競馬なら六頭目に、百頭の競馬なら六十頭目ぐらいをつねに走っている。それ以上にもならぬ代りに、それ以下にもさがらない。馬はいつでも自分のペースで駆けつづける。

人間の一生はけっきょく一つの目標に向って自分自身のペースで歩きとおしたあげく、どの程度まで達しられるかにかかっている。

この茂輔の回想に続けて、武氏は、かう記しておいでである。

この『六頭目の馬』という小説が何時どこに発表されたものなのか、とうとう見つけることは出来ず、従而、直接読む機会はなかったが、茂輔の人生観のようなものを知る手がかりにはなる。

20世紀メディア研究所の占領期新聞・雑誌情報データベースを検索してみたところ、間宮茂輔『六頭目の馬』は、昭和23年10月25日発行の文化評論社『文化評論』さ載った模様。
ところで、間宮武『六頭目の馬――間宮茂輔の生涯』の「あとがき」によると、武氏が茂輔の生涯を書いてまとめるきっかけとなったのは、ご自分のご尊父のことを尋ねようと叔母ごさんを訪問された折に長兄である茂輔の話が出たことにあったといふ。
一度同人誌『文学草紙』に『その掟――間宮茂輔ノート――』として発表されたものが予想外に多くの反響を呼んだ中で、小田切秀雄から『文学時標』紙面で「茂輔が革命運動の中で具体的に何をしたかが調査されていない」「戦後の『新日本文学会』での活動がかいなでの書き方になっている」といふ指摘がなされたのだといふ。一方で小田切はかうも評したといふ。

こういうマイナー・ポエトの生涯を明らかにする仕事は、それ自体としておもしろいだけでなく、昭和文学史、プロレタリア文学等の研究者にとっても有益である。

間宮武氏は、そこから茂輔をさらに掘り下げて、この『六頭目の馬――間宮茂輔の生涯』に結実されたわけである。
……
紙の出版物としては大出版社の採算に合はないため絶版になるような作品・作家も、ひょっとすると電子テキストやオンデマンド出版であれば採算が合ふかもしれない。
また「公有テキスト」化してからの、“第二の人生”が時代にマッチするなどのドラマが生じるかもしれない。
などと想像するに、九割のマイナー・ポエト、九分の中堅、九厘の売れっ子、九毛のベストセラー作家、九糸の国民的作家……といった構成になると想像される「文化」の大部分の流通を妨げる方向に働くCopyright=複製権の保護期間=独占期間延長といふのが、「文化」に何をもたらすのか、よくよく考へておいていい。
青空文庫「そらもよう」の2009年11月24日付記事「青空文庫半減を憂うる民主党へのメール」中、保護期間延長が定まった場合に過去の保護期間切れ作家・作品にも遡及適用されるかのような記述は無視しつつ、“適価で売ってたら買う人が今でもいる”作家・作品が無償テキストでなくなることを訴えてもツマランと思ふ己。
そんなもんは本屋に売らせておけよ*1
公有テキストのWeb共有って観点からは、現時点で商品として流通してゐないのみならず市区町村の図書館の大半が持ってをらず全国四十七の都道府県立図書館のうち半数以下にしか所蔵されてないとか、さういふマイナー・ポエトがマイナーなままに「更に二十年間余分に」捨て置かれることこそが文化的損失であり、無償の愛を捧げて速やかに電子化しWeb共有するべきなんぢゃねえべか。
てなことを書いてみる。
……
ともあれ、かうした“パンの心配”ぢゃない話題を記して年を越せるのは、ありがたい話である。

*1:もちろん、リアル出版社がベストセラーの隙間にマイナー・ポエトを潜り込ませるやうに、青空文庫にも有名作家とマイナー・ポエトの両方が必要だといふ理屈は承知してゐる。マイナー・ポエトばかりをあつめた“夕闇文庫”や“たそがれ文庫”ぢゃ、一般客が入って行けないもんね。