日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

大杉栄・伊藤野枝訳ファーブル『科学の不思議』二〇「印刷」

『本が書かれると、著者は其の作物、即ち原稿を印刷屋に送る。印刷屋はそれを活字にして、本を作りたいと思ふ数だけ複製する。
『端の方にアルフアベツトの文字を浮き彫りに刻んだ、短い綺麗な金属の棒を想像してごらん、或る棒の端にはaといふ文字があり、別なのにはb、或はcといふ文字がある。又中には、何にも彫つてないのや、点や、コンマや、其他吾々の言葉を記《しる》した種々の文字や符号のすべてと同じだけのいろいろの活字がある。その上どの文字もどの符号も、幾通でも/\使ふ事が出来るやうになつてゐる。かう云ふ活字は皆以前は逆さに字が刻んであつたものだ。その理由は今に分る。
『植字工と云ふ労働者は、自分の前にケースの台を持つてゐる。そのケースの中にはアルフアベツトの文字や符号が、一と区切り/\入つてゐる。aはaの区切りの中に、bはその次の区切りに、cはその又次の区切りにと云ふ工合になつてゐる。しかしそれらの文字はアルフアベツト順に箱が並んでゐるのではない。仕事を手ツ取り早くするために、一番沢山使はれる文字、例へばeだとかrだとかiだとか云つた風の文字を、手近の区切りに入れておく。そしてxだとかyだとか云ふやうなあまり使はない文字の区切りはもつと離れたところに置く。
『植字工は自分の前に原稿を置いて、左手には植字台《ステッキ》と云ふ、縁のある鉄の定規を持つてゐる。そして原稿を読みながら、長い習慣に慣れた右手は、指定された文字を探して、それを他の字と列を並べてステツキの上に置く。植字工は文字のあるのに似た、しかし端の方の低い、そして何も彫つてない活字で一字一字の間を隔てる。第一行が済むと、植字工は既に出来上つた行の次ぎに、小さな活字を並べて新しい行を作り始める。そして最後にステツキが一杯になると、職工はその中味を丁寧に鉄の枠の中に入れる。そして枠が一杯になつて、印刷床と云ふものが出来上がるまで、此の仕事をつゞける。此の床はたゞ次ぎから次ぎに並べた無数の小さい活字から出来てゐる。此の無数の小さい金属を列べるのは忍耐と熟練との大仕事で、ちよいと間違つても駄目になつて了ふ。そして其の鉄の枠の隅々をしつかりと固めて、全体をまるで一枚の金属板のやうにする。これで、其の床は印刷される準備が出来たのだ。
『油と油煙で出来たインキを含ませたルラアが、此の床の上を転がる。すると、文字や符号などの浮彫りの活字はインキを塗り被《かぶ》せられて了ふが、残りの活字は表面が低いからインキを被らない。一枚の紙が此のインキのついた床の上に載せられる。そして其の紙を保護するに重しを被せて置いて、それを強く圧《お》す。活字のインキは紙に附いて、紙は一方の方が印刷されて出る。又別なものを印刷するには、此の方法を其の次ぎの床で繰り返すのだ。活字の文字は前に私が以前に話した通り、逆さに字が彫つてあつた。それが紙に印刷されると、ちやんとした字になるのだ。
『最初の紙が済むと、直ぐに第二の紙がつゞく。ルラアで再び板はインキを塗られ、其の上へ一枚が載つて圧されると、それでもう仕上がつたのだ。そこで第三番目の紙が来る。百遍目、千遍目と続いて来る。その度毎に必要なのは、板にインキを塗つて、紙で被つて、それから圧すと云ふ事だ。かうして其の一枚でも手でかけばまる一月もかゝるやうなのを幾千幾万枚も、忽ちの間に印刷して了ふ。
『人間の心の働きを非常に早く、そして欲しいだけ沢山写し出す此の優れた技術が発明されるまでは手製の写本に限られてゐた。此の手写し本はその仕事に長い年月がかゝつたので、数も極めて少く、値段も高かつた。五六冊の本を手に入れるには、非常に運が好くなくては駄目だつた。今日では、本は何処にでもあつて、極く低級な人間の間にも知識の貴い糧は沢山拡つてゐる。此の印刷術は四百年以前にギユテンベルグが発明したものだ。』
『その名前を僕は決して忘れませんよ。』とジユウルが云ひました。
『それは覚えてゐていゝ名だ。本を印刷すると云ふ事で、ギユテンベルグは、人間が無知でゐると云ふ事の出来ないやうにした。将来の力になる我々の知識の宝は、石や金属に刻みつけられるだけでは足りない。其の数の多いところから無くなると云ふ心配のない紙に書かれなければならない。』

底本:「定本伊藤野枝全集 第四巻」學藝書林(2000年12月15日初版、asin:4875170556)196-198頁