前回(12/24)の続き。
広津和郎『続年月のあしおと』(講談社学芸文庫版「下」:asin:4061976575)第70項「徳永直」の冒頭は、間宮茂輔の豪徳寺人脈の裏付け証言から始まる。
その頃、世田谷の私の家の近くには、文学者たちが大分住んでいた。豪徳寺の森の西側の同じ通の私の家から三軒ほど北には間宮茂輔君の家があり、豪徳寺の森の西北には中野重治君の家があった。
なるほど間宮の家からは、隣家である渡辺順三に次いで、広津の家が近い。
玉川電車の向う側の経堂方面には、徳永直君や青野季吉君が住んでいた。
徳永君とはいつ顔を知り合ったか覚えていないが、物を書く人たちは、互に訪ね合ったりしないでも、会で会うとか、往来で会うとかして、いつかその顔を互に知り合うようになっているものである。
その徳永君が或る時突然私を新宿ホテルに訪ねて来たことがあった。私は台湾に出かける時新宿ホテルを引払ったから、徳永君の来たのはその前――多分昭和十五年のはじめか半ば頃ではなかったかと思う。
徳永の用件は、『太陽のない街』を絶版にするという考へについて伝へ、その考へについて広津の意見を聞くことと、新しい短編集の序文を書いて欲しいと頼むことであった。
序文を頼まれて広津は思ふ。
とにかく私が左翼作家ではないから、徳永君のようには「睨まれた」立場にいないというわけなのであろう。そこを徳永君は利用して、私に序文を書かせることによって、彼の立場をカムフラージしようというのであろう。それ以外に私を突然訪ねて来て、そんなことを私に頼む理由は考えられない。
併しそういうことは兎に角として、私は序文を書くことを承諾した。それは私が日頃から徳永君という作家に、遠くの方から、或る好意を持っていたからである。
続けて『続年月のあしおと』に抜萃掲載された広津和郎の序文は、短編集『はたらく一家』で全文が読めるはずである。新潮文庫版にも載ってゐるかどうかは、未確認。
ところで、浦西和彦編『人物書誌大系 1 徳永直』によると、広津の序文を載せた短編集『はたらく一家』は、まず昭和13年11月25日に吉田貫三郎の装幀で三和書房(古書店の目録には三輪書房とある?)から出てをり、次に昭和16年4月20日に柳瀬正夢の装幀で桜井書店から出てゐる。
柳瀬正夢版が印象に残ってゐるため「多分昭和十五年のはじめか半ば頃ではなかったかと思う」と広津は記したんだらうけど、実際は昭和13年のはじめか半ば頃のことだらう。
『年月のあしおと』『続年月のあしおと』の年譜によると、広津が新宿ホテルに執筆場を設けてゐたのは、昭和9年から15年末までのことである。
その後徳永君は戦争中に二回か三回か私の豪徳寺の家を訪ねて来たことがあった。私も二、三回彼の家を訪ねたことがあった。
その頃は庭の片隅や、又少しでも空地があると、どこの家でもそこに野菜を植えて、食料の欠乏を補ったものであるが、徳永君は徳永君の家から一丁ほど隔ったところに、農夫から畑の一部を借りて、そこを耕していた。
まだその頃はその附近には畑が多く、その畑の中が私には散歩区域であったが、私はその区域を散歩する時、屡〻徳永君が畑で働いているのを見かけたものであった。
ここでどうしても、爆風スランプのメジャー第二弾アルバムに入ってゐた「せたがやたがやせ」を思ひ出さずにはゐられない己。