日本語練習虫

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青野季吉『青野季吉日記』『文学五十年』の徳永直

昭和十四年八月十一日から二十年四月二日まで書かれた『青野季吉日記』(1964、河出書房新社)によると、青野は五月七日に「日本文化史展」を見て「心悦ぶ」とひとこと感想を記してゐる。
あちこちの出版社主や編集者が何度も通ってゐる他、渡辺順三や村雲大樸子が青野を訪ねてきたり、内田巌と相互に訪問したり、様々な人の通夜葬儀に出かけてゐたりする。自身の義母も、この時期に亡くなってゐる。
昭和十四年と十五年の大晦日を共に過ごしてゐる「谷崎君」とは谷崎潤一郎のことだらうか。
昭和十六年には、出版社編集者関係以外では内田巌と最も多く会ってゐる。内田が青野の家を訪ねる回数が一番多いが、他にも展覧会場で会うなども含め、都合十回ほど。
十五年九月二十五日に「小堀君、徳永君、鄭全圭君來訪。少し人に醉ひたり」とあるのと、十六年九月十六日に「午前に徳永君一寸立寄る。芭蕉の葉の構造について話したら、面白いと感心してゐた」とあるのが、徳永直かどうかは判らない。
十五年八月一日「夕方、間宮君來訪、一切の團體的の仕事と訣別したりと云ふ」といふのは、メモは取ってゐないんだども、確か『文化評論』1969年12月号「作家同盟の周辺にいて(三)――プロレタリア文学運動の回想――」に書かれてゐた、間宮茂輔が転向出獄した際に豪徳寺近辺の人々を訪ね廻った件だらう。
昭和十七年三月二十三日には、渡辺順三が記した互助会員の葬儀もあったやうだ。

夕刻、風呂へ行く道で廣島定吉君に偶然に會つて、龜屋原徳(本地正輝)の急死を知る。午前中普通であつたのが、午後一時頃少し氣分惡しと云つたままに成つたのだと云ふ。長わずらひの彼も、佛に抱かれたり。その夜、通夜に行く。細君に悲嘆。打たれる。村雲君、松本君、徳永君等何くれとなく世話してゐる様子なり。十二時近く、徳永君らと歸る。

この後も近所の人々のうち間宮茂輔、内田巌、渡辺順三らとは交流が記されてゐるんだども、己の見落としでなければ広島定吉亀屋原徳通夜の件が『青野季吉日記』に「徳永君」が出てくる最後。
残念ながら、『光をかかぐる人々』執筆の様子は、何も書かれてゐない。
ちなみに、青野『文学五十年』中《「真珠湾」の日から》には、「付近に住む画家内田巌(明治三三〜昭和二八)は早朝のニュースを聴いた瞬間絶望的な気持になって、ラジオの前で家族相擁して泣いたと、数日後に語っていた」といふ箇所があるんだども、「日記」さはそれらしい記述が無い。もちろん、「時局」下にあって保釈出獄中、未決の状態であった青野が、日記に反戦的な内容をそのまま書き記すことができるとは考へられないのは、中島健蔵による「青野季吉の日記について」の記述に見られる通り。
また、『青野季吉日記』の末尾には紅野敏郎による詳細な年譜があるんだども、昭和六年に豪徳寺裏に引っ越した渡辺順三が自分よりも早くから経堂に青野がゐたといふその青野がいつから経堂に住んだのかについての情報は見出せなかった。