日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

公文書館所蔵の職員録に見える東京帝国大学附属図書館の司書

それらしい資料が言及しあってゐる印刷物は見終へたやうなので、国立公文書館アジア歴史資料センターの公開資料、職員録を眺める。
例へば山田珠樹が東京帝国大学附属図書館の司書官となってすぐに出された、大正十四年七月一日付の職員録を見ると、館長・姉崎正治以下、司書官植松安、小杉醇、山田珠樹、寺澤智了である他、書記が小澤銀十郎、長谷部己津次郎、手島誠雄、司書が鈴木繁次、畠山源蔵、喜多村鑑、武蔵昇、森本謙蔵、永峰光名、関野真吉と記されてゐる。
このうち、小澤、畠山、喜多村、森本の名は『図書館再建50年』に見えないように思ふ。
以後、毎年「一月一日現在」の職員録は館長と司書官しか掲げないが、「七月一日現在」の職員録は司書まで掲載するので、山田珠樹の同僚について、その氏名のみは把握し得る。
このへん、2009112220091124に関係。
さて、己の問題は徳永直の知人といふS司書。
残念ながら、昭和十四年七月一日付の職員録を最後に、司書の掲載が終はり、十五年以後、司書官までしか掲載されなくなる。
その昭和十四年七月一日現在の陣容は、館長高柳賢三以下、司書官が小野源蔵、鈴木繁次、河合博、水野亮、書記が武石彌平、手嶋誠雄、司書が永峯光名、関敬吾、加藤素治、土井重義、増田七郎、山崎武雄(渋川驍)、久保忠八、巨橋頼三、松村博三、姉崎正見、中里龍瑛、会田由と記されてゐる。
この名は、すべて、『図書館再建50年』に見える。昭和十四年七月一日現在の『職員録』と、『図書館再建50年』を突き合はせて見る限り、S司書の候補は関敬吾と渋川驍に絞られると云っていいだらう。
ただし『図書館再建50年』は渋川(山崎武雄)の在籍を昭和十四年六月までとしてゐるから、七月一日現在で在籍してゐるとする『職員録』以後、いったい何時まで在籍したのか、当人の随筆集『書庫のキャレル』中の記述――「大学卒業から終戦の年までいた東京帝国大学の図書館では」(図書館の窓から)、「私は、終戦の翌年二月から東大図書館をやめて、文筆生活に入っていた」(思いがけない決意)、或はそのものズバリ「戦時下の東京大学図書館」という項には、昭和十八〜十九年、空襲に晒される図書館生活が綴られてゐる――の傍証を求めて、『高見順日記』を読み進めてゐる。
例へば第三巻、昭和二十年三月七日。

大学図書館に寄って見た。前のように受附はいない。森閑としていて、空屋のようだ。事務室をのぞくと、女の人がいたので渋川君に電話して貰ったが、外に出ていていないという。

あらら、渋川君、留守ですか。
或は第四巻、昭和二十年六月十六日。

まず帝大図書館へ行った。渋川君に会って、倉橋君の家の道順を聞こうと思ったのだ。

――中略――

図書館には、珍しく(?)受附の少年がいたが、渋川君は留守であった。

あらららら、渋川君、また留守ですか。