日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

生田可久が三村竹清に語った「明朝ほり」の話が竹村真一『明朝体の話』「三、書者名つきの明朝体」に伝わっているのだけれど

大正11年7月4日に生田可久が三村竹清に語ったという「明朝といふ書風其初は唐本風なりしが、漸く日本化して、嘉永の頃源蔵明朝といふが起これり」と始まる話について、延々と、虫観的に読んでみている。

いま分っている範囲で3回、三村はこの話を公に書いている。この3回の話について、『三村竹清集2』版の「ほんのおはなし(2)」で「13」というひとかたまりになっている話題を軸に、「洞梅録」や『本のはなし』に合わせて区切りながら、各々対比してみよう(原文は旧字旧仮名)。

「ほんのおはなし(2)」(稀書複製会『版畫禮讃』春陽堂、1925〉所収)「洞梅録」(『集古』甲子3号〈集古会、1924〉所収)『本のはなし』(岡書院、1930)
明朝と云ふ書風(常の活字の書風)に爪つき明朝と云ふあり。古銭家の言ふなる、安南の爪正隆手の書と同じく、文字の筆の当り鈎の如くなるを云ふ。又明朝の横画の筆の押へを判木師は鯖の尾といひ、縦画の筆の納りをいなご尻といふことぞ、右洞津の安井文哉老人の話。〈164頁〉

生田可久君の話に(大正11年7月4日来話)明朝と云ふ書風も初は唐本風なりしが、嘉永の頃、源蔵明朝出来ぬ。源蔵と云ふ人二人あり。一は渡邊源蔵とて医学館に出でたり、家は瀬戸物町の鰹節屋イのうしろと云。此の人筆耕の時は拙く見ゆれど雕り上げは非常によく見えし由。此の人の風を中島文平書す。一人は森源蔵とて細川家の家来なり。此の人は筆耕の時は善く見え乍ら、雕りては引立たざりし。此の後、佐太郎明朝行はる。森谷佐太郎と云ふ彫師の創めしものにて、此の風蓮池(津の守阪下と云ふ)に住める松久粂蔵伝へたり。川村明朝と云ふは川村某の創めし風にて、入谷の安井台助此の風を彫る。安井の倅川田弥太郎も亦明朝彫りなり。又清八さんの明朝と云ふは、篠原清八明朝彫にて斯く云へり。先代安田〈ママ〉六左衛門(天神山と云ひ平河町住なり筆耕ほりにて群書類聚も此の人の手なるよし)の子なり。此の外に酒井勝太郎、亀井戸の粂さんなど、皆明朝彫りをなせり云々。〈164-165頁〉 明朝と云ふ書風は初は唐本風なりしが嘉永の頃源蔵明朝と云ふが起これり、源蔵といふ人二人あり、一人は渡邊源蔵とて医学館に出でたり、家は瀬戸物町の鰹節屋イのうしろと聞く、此の人筆耕のときは拙く見ゆれどほり上げては非常にひきたちて見えし、中島文平此の書風を継承す。一人は森源蔵とて細川家の臣也、此の人は筆耕のときは善くほりては左程に非ずとぞ。此の後佐太郎明朝行はる、森谷佐太郎と云ふ彫師の創めしものにて、此の風は津の守坂下、蓮池に住める松久粂蔵伝へたり。川村明朝は川村某の創案にて、入谷の安井台助此の風を彫る、安井の忰川田弥太郎も亦明朝ぼり也。又清八さんの明朝と云ふは篠原清八明朝彫にて此の人の風を云ふ。先代安田〈ママ〉六左衛門(天神山といひ平河町住なり筆耕彫りにて群書類聚も此の人の手に成りし由)の子なり此の外に酒井勝太郎、亀井戸の粂さんなど、皆明朝彫りをなせりと云ふ。生田可久君談〈10頁〉 【明朝かき】明朝といふ書風其初は唐本風なりしが、漸く日本化して、嘉永の頃源蔵明朝といふが起れり、源蔵といふ人二人あり、一人は渡邊源蔵とて医学館に出で、家は日本橋瀬戸物町、名高き鰹節屋イのうしろと聞きぬ、此の人筆耕の時は、拙く見ゆれど、彫り上げては、非常にひきたちて見えし由、中島文平此人の風を書く。も一人は森源蔵とて細川様の家来也、渡邊とはうらはらにて、筆耕の時は、甚だよく見えながら、ほりたる後引立たざりし。此後佐太郎明朝行はる、森谷佐太郎といふ彫師のはじめしものにて、この風は蓮池(四谷津の守坂近所)に住める松久粂蔵伝へたり。川村明朝は川村某はじめしものにて、入谷の安井台助この風を彫る。安井の忰川田弥太郎も亦明朝彫也、又清八さんの明朝といふは篠原清八明朝彫にて、一流あれば斯くいふなり。此人先代安田〈ママ〉六左衛門の子也。この安田〈ママ〉六左衛門は、天神山といひ麹町平河町住、名高き筆耕彫にて、群書類聚の板も此人の手に成れるとぞ。此の外酒井勝太郎、亀井戸の粂さんなど、皆明朝彫りをしたるなり云々、大正十一年七月四日生田可久君話。〈299-300頁〉

先日「三村竹清日記の『演劇研究』翻刻掲載状況と個人的な願望」に記した通り、今のところ竹清の日記「不秋草堂日暦」から「午後生田君来 板木師伝草稿置いてゆく 夕くれまで話してゆく」という短文を超えて、生田の話の中身を当時記したものを見つけることが出来ていない。

また、「洞津の安井文哉老人の話」というのも、三村がいつ頃どのように接したものか、日記から見つけ出すことは出来ていない。


源蔵明朝云々の話は、竹村真一『明朝体の歴史』(思文閣出版、1986)の「第8章 明朝体の代表的な書風と刻師」の「第2節 刻師仲間の慣習語」(169-172頁)にも記されている。当該節は「一、続文章規範纂評と爪つき明朝体」「二、鯖の尾といなご尻」「三、書者名つきの明朝体」「四、版木師」という4項目で構成されており、「三、書者名つきの明朝体」がそれだ。

竹村『明朝体の歴史』の本文周辺で直接的に明示されてはいないが、巻末の参考文献リストと本文テキストの内容から考えれば、これは上里春生『江戸書籍商史』(出版タイムス社、1930〈のち名著刊行会、1965:『明朝体の歴史』はこちらを掲載〉)の「筆耕」の項(173-181頁)を整理し肉付けしたものと考えて良いだろう。

『江戸書籍商史』の「筆耕」の項から後半(180-181頁)を抜き書きしておこう(原文は旧字旧かな)。

扨て、版本の書風に明朝といふ書風のあることは誰れしも知るところであらう。これに爪つき明朝といふのがある。とは古銭家の言葉であるが、それは安南の爪正隆手の書と同じく、文字が筆の当り鈎のやうになつて居るのをいふ、版木師仲間では明朝の横画の筆の押へを鯖の尾と呼び、縦画の筆の納りをいなご尻といふさうである。
この明朝といふ書風は初めの程は例の唐本風であつたが嘉永の頃に至つて源蔵明朝といふ二種類の書風が現れた。即ち一つは医学館に専属してゐた渡邊源蔵が始めたもので、他の一は細川家の家臣森源蔵が書いたもの。渡邊の住ひは瀬戸物町の鰹節屋の後であつたが此の人の作風は筆耕の時は拙劣に見えたけれ共彫り上げとなると非常に引立つたといふ。一方森源蔵の方は筆耕の時はよく見えながら、彫り立ては左まで引立たなかつた。あべこべの作風で対立してゐたものである。
この後にまた、佐太郎明朝といふのが行はれた。森谷佐太郎といふ彫師の創めたものである。この風を継承したものに、松久粂蔵といふ人があつた。
又、川村明朝といふのは川村某が創めた書風で、これは入谷の安井台助といふ彫師が承け継いだ。安井の子の川田弥太郎は勿論この風である。
更に清八さんの明朝といふのは、篠原清八郎の明朝のことで、此の名があつた。この清八郎は宮田六左衛門の子である。宮田六左衛門は天神山といひ、平河町住ひで塙保己一の「群書類聚」などの筆耕ほりとして有名な人である。
なほ此の外に酒井勝太郎、亀井戸の粂さんなどといふ明朝彫りの名手達があるが、これは彫師の方の話しに脱線する虞れがあるから此処らで筆耕に関する乏しい記述は止めやう。

出版タイムス社版の『江戸書籍商史』と名著刊行会版の『江戸書籍商史』、どちらも文献リスト等気の利いたデータが掲載されておらず――名著刊行会版は原本を影印復刻しただけで解説等を加えたりしてはいない――断定はしないでおくが、略歴から考えて上里自身の体験や直接取材によって書かれたものではなく、少なくとも当該箇所は三村竹清の著作をリライトした内容である蓋然性が高いと思われる。


大正11年7月4日に生田が三村に語ったという「明朝といふ書風其初は唐本風なりしが、漸く日本化して、嘉永の頃源蔵明朝といふが起これり」と始まる話について、「唐本風」だったと言われる頃の書風がどういうものを指すのか、また「漸く日本化し」た頃の書風がどういうものを指すのか。「爪付き明朝」の話題で「常の活字の書風」と書いているように、三村竹清は「漸く日本化し」た頃に「〇〇明朝」と呼ばれていたという書風を我々が現在思い浮かべる明朝体と同様の書風だと考えているようだが、生田が話したところがどのような意図であったか。また幕末に「源蔵明朝」などという呼び名が本当にあったのだとして、その書風が、嘉永3年に発行された錦林王府木活字版『唐鑑』刊語で言われる仏典字様に対する明朝様(書写体)ではなく「常の活字の書風」であると考えていいのかどうか。

嘉永の頃に刻まれたという「書者名つきの明朝体」が具体的にどういうものだったのか、手がかりが見つからないだろうか。

丸山季夫『刻師名寄』(吉川弘文館国学者雑攷別冊」、1982)が、三村の「洞梅録」に基いて明朝彫の字彫り職人として渡辺源蔵らの名前を掲載している。三村が記した生田の話に出てくる順に、拾ってみよう。

【渡辺源蔵】明朝風の彫師。明朝といふ書風は初は唐本風なりしが、嘉永の頃、源蔵明朝と云ふが起れり。源蔵といふ人二人あり。一人は渡辺源蔵とて、医学館に出たり。家は瀬戸物町の鰹節屋イのうしろと聞く。此人筆耕のときは拙く見ゆれど、ほり上げては非常にひきたちて見えし。中島文平此の書風を継承す(洞梅録、集古甲子第三、生田可久談、大正十三年)。〈「名寄」179頁〉

以下同様にして、中島文平(121頁)、森源蔵(158頁)、森下〈ママ〉佐太郎(158-159頁)、松久粂蔵(148頁)、安井台助(159-160頁)、川田弥太郎(60頁)、篠原清八(92頁)、酒井勝太郎(88頁)、亀井戸の粂(59頁)の名が洞梅録からとして拾われており、安田六左衛門だけは『刻師名寄』に名が見えない。

鈴木淳「板木師井上清風の刻業」(『近世文芸』49号、1988、PDF〈jstage〉)が「丸山氏の「刻師名寄」の功績として瞠目すべきは、各刻工について、その刻字した書目を掲げること」(49頁)と記しているように、『刻師名寄』において三村「洞梅録」から名前が拾われた筆耕師・彫師のうち、刻字した書目が併記されている者がいる。

【安井台助】川村明朝は川村某の創案にて、入谷の安井台助此風を彫る。安井の忰、川田弥太郎も亦明朝ほり也。(洞梅録、大正十三年集古甲子第三、生田可久談)

鎌倉武士
南新二戯作。彫刻者。東京市下谷区阪本村七一番地〈ママ〉安井台助、明治三十二年〈ママ〉十二月二十六日発行和田篤太郎、定価三十五銭。東京大学図書館蔵。(杉村英治氏示教)

東大図書館蔵書の現物を見たわけではないが、OPACの書誌を見る限りこれは明治23年(1890)に春陽堂から刊行されたもので、国会図書館デジタルコレクションや近代書誌・近代画像データベース(高知市民図書館・近森文庫蔵本)で奥付を見ることができる。

確かに東京市下谷区阪本村廿一番地の安井台助が彫刻者として示されている。彫刻者として併記されている五島徳次郎(徳二郎)も『刻師名寄』に立項されていて、五島の関係書目に『鎌倉武士』の書名は無いが、『省亭花鳥(美術世界第25巻)』(春陽堂明治27年)、『美術世界第二輯』(春陽堂明治23年)、そして『日本勝景初篇』(東陽堂、明治26年)が挙げられている。『鎌倉武士』において、絵を後藤、字を安井が彫るといった役割分担でもあっただろうか。ちなみに『鎌倉武士』本文の版下筆耕を誰が務めたかは判らないが、「明朝体」ではない。

【川田弥太郎】安井台助の子。明彫をよくす。

椿山画譜
二冊。明治三十三年九月三日発行。編輯発行者吉川半七。彫刻者川田弥太郎、下谷区入谷町二十四。印刷者藤浪銀蔵、向島寺町島林一九八五。(国会図書館上野本、三康図書館にもあり。木村八重子氏示教)

国会図書館デジタルコレクションで奥付(1)(2)を見る限り、確かに東京市下谷区入谷町二十四の川田弥太郎の名が彫刻者として掲げられている。ただし『椿山画譜』は文字通り画譜であって「明朝体」の文字とは全く関係が無い。

【酒井勝太郎】明朝彫師。(洞梅録、集古甲子第三、生田可久談)

龍吟遺珠
著作者、旧西条藩主上田恪之助、出版人、東京府華族松平頼英、明治十三年九月鐫、彫龍閣蔵梓、東京飯倉片町二十五番地酒井勝太郎摹刻。(木村嘉次氏示教)

国会図書館デジタルコレクションで同書を見る限り酒井が「東京飯倉片町二十五番地」居住であったかどうかは不明だが、奥付には確かに「酒井勝太郎摹刻」と記されている。摹刻(模刻)とある通り、上田恪之助の様々な書体による本文と、「草川重遠書」である跋文の、各々の書風をしっかりと写し取るように彫刻されたものなのだろう。残念ながら「明朝体」の文字とは全く関係が無い。


国文学研究資料館近代書誌・近代画像データベースの詳細検索項目「レコード全体」で安井台助(臺助)の名を検索してみると、前掲『鎌倉武士』の他、次の書目に見えるようだ(一部、奥付画像から安井の所在情報を補い、また国会図書館デジタルコレクションで閲覧できるものについては#ndldigitalのリンクを追加した)。

また西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベースを経由すると、更に3点ほど安井の名が見える。

こうして見ると、「浮世絵文献資料館」の浮世絵辞典「彫師」で紹介されている永井良知編『東京百事便』(三三文房、明治23年)の「木版」の項で「書画共に彫刻するも就中細字に長せり」と書かれている安井台助評が簡にして要を得た同時代評なのだと思われる。彫刻する文字の書風について、明朝彫り云々ではなく、どのような書風もこなし、とりわけ細字(細かく小さな文字)が得意だ、ということだ。

近代書誌・近代画像データベースの詳細検索項目「レコード全体」で、川田弥太郎の名はヒットせず、酒井勝太郎は西島青浦・高森有造編『書画名器古今評伝』(岩本忠蔵、明治31年#ndldigital)に「彫刻兼印刷者 酒井勝太郎 本郷区湯島新花町三十四番地」として見えている。酒井もまた明朝彫り云々ではなく、版下の筆意を生かした字彫りが達者である、という者では無かったろうか。


なお、先ほど「安田六左衛門だけは『刻師名寄』に名が見えない」と記したが、「塙保己一「群書類聚」などの筆耕ほりとして有名な人」であれば、その名は安田ではなく宮田六左衛門である。「宮田六左衛門」の名は、携わった書目と共に記されている(丸山季夫『刻師名寄』153頁)。

【宮田六左衛門】六左衛門は昭和四十年七月十一日年八十歳で歿した。長太郎まで十一代あり、群書類従を刻りしは五代前川氏(版木師)に養子となりしと云ふ。

【同六左衛門七代】宮田連行(ツレユキ)、天保八年酉四月二十九日歿、葬麻生本村町称念寺、江戸名所図会を彫る(木村嘉次氏稿、印刷時報)。長男清八、明朝体をよくせしも御家人篠原の株を与へられて職を廃す。八代六左衛門三男清次は早く歿し、二男常次郎九代となり後之行と改む。明治六年文部省に入る。文化十一年生、明治十年歿、年六十四(木村嘉次氏稿、印刷時報)。

七代目宮田六左衛門の長男で後に篠原姓となる清八が彫ったことが明らかであるような資料は見えないので、書目は省く。

七代目宮田六左衛門の長男清八が「明朝体をよくせし」逸話が、木村嘉次「字彫り版木師を語る」(上:『書物展望』5巻9号〈1935〉、下:『書物展望』5巻10号〈1935〉、後に「江戸の字彫り版木師たち」として『字彫り版木師木村嘉平とその刻本』〈青裳堂「日本書誌学大系13」、1980〉に収録)に掲載されている。以下「江戸の字彫り版木師たち」49頁より(原文は旧字旧かな)。

この長男を清八といひ、器用に彫刻した。時には胡麻竹に小身を入れて彫つたともいふ。或年の夏、父親に叱られて家出し、玉子を売歩いた。しかしくだらなくなつたので、佐内坂の朝倉伊八の店へいつて、使つて呉れといつた。今のやうに世智辛くないから、
「うん、おいて上げよう。だがどこで習つたかね? ま、一つこいつを彫つてみせて呉んな。」と伊八は何か字を書いて出した。
清八はこれを明朝で鮮かに彫つてみせた。伊八は明朝をかう巧みにやる者はほかにちよいと考へつかないので、さてはと思つて、
「さうですかい、平河町の、噂に聞いた清八さんですね。」と看破つて笑つたといふ。

「江戸の字彫り版木師たち」冒頭(43頁)には、次のように書かれている。

維新直後版彫りを始めて、今日まで生きながらへてゐる者は僅に十代宮田六左衛門と川澄金彌の二翁に過ぎない。既に書いた通り、六左衛門翁は今年八十三、金彌翁は七十五の老年であるが、共に仲々強記である。これを書くに当つて、この二人の尊敬すべき剞劂の、日頃の詳細な談話に負う所の極めて多かつたことは勿論である。殊に、六左衛門翁が「御府内版木屋見聞録」なる筆記を快く借覧させて呉れたことは、私の貧しい知識を富ますに十分だつた。

実は生田が語った「明朝ほり」の話は、十代目宮田六左衛門からの又聞きなのではないかと思えてならない。


大正11年7月4日に生田可久が三村竹清に語ったという「明朝ほり」の話に出てくる彫工たちの仕事そのもの、あるいは確実な同時代評で、「これは確かに現在の我々が思うのと同じ明朝体の話である」と言えるようなものに、どうにも出会うことができない。

この「明朝ほり」の話は上里春生『江戸書籍商史』を経由して竹村真一『明朝体の話』「三、書者名つきの明朝体」に伝わっているのだけれど、優れた補強材料が現れない限り、少なくとも「明朝体の」字彫り/剞劂/彫師/彫工/刻工/彫刻者*1の話としては、いったん忘れた方が良いように思える。

*1:この職能が刊本に記載される際、「剞劂」「彫師」「彫工」「刻工」「彫刻者」のどれかで書かれるか、または「〇〇刻」「〇〇鐫」と表示されることの他に、表記事例があればご教示ください。