日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

幕末明治期の版木彫刻師安井台助が白百合女子大学小波日記研究会翻刻の『巌谷小波日記』に載っていた

先日記した「生田可久が三村竹清に語った「明朝ほり」の話が竹村真一『明朝体の話』「三、書者名つきの明朝体」に伝わっているのだけれど」の後半に関係する話。

生田の話で「川村明朝は川村某の創案にて、入谷の安井台助此風を彫る。安井の忰、川田弥太郎も亦明朝ほり也」とされていた安井台助(臺助)について。

安井が関係する書目として丸山季夫『刻師名寄』(吉川弘文館国学者雑攷別冊」、1982)が南新二『鎌倉武士』だけを掲載していたところ、先般、国文学研究資料館近代書誌・近代画像データベースと西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベースの検索結果によって13書目を追加することが出来ていた。「生田可久が…伝わっているのだけれど」に示した13書目と『鎌倉武士』の計14書目を、刊行年順に整理し直して再掲しておこう。


両データベースと並行してGoogleブックスでも検索してみていて、面白そうな情報が『明治文学全集20 川上眉山・巖谷小波集』(筑摩書房、1968)に載っていそうに思われた。

先日地元図書館で現物を借覧したところ、検索結果のスニペット表示は明治24年の日記である「辛卯日録」9月の話だと判った。「廿日 小雨 午後安井台助来、猿蟹筆耕の件」とある。念のため前後にざっと目を通してみると、検索結果そのものズバリの9月20日だけでなく、前年も含めて何度か安井が登場するようだ。

そこで改めて『巌谷小波日記〈自明治二十年 至明治二十七年〉翻刻と研究』(桑原三郎監修、慶應義塾大学出版会「白百合児童文化研究センター叢書」、1998)で明治24年周辺に登場する安井台助の話題(と『猿蟹後日譚』の話題)を確認してみることにした。以下、『巌谷小波日記―翻刻と研究』より(強調は引用者、また改行箇所を「/」で示した)。

明治24年6月)九日 晴 / 午前後舌切雀、猿蟹後日清書(135頁)

明治24年6月)十三日 曇 夜雨 / 午前昔物語清書 正午之ヲ博文館へ送り十円受取(136頁)

明治24年「辛卯日録」の巻末に、同年6月に脱稿した作品として「舌切蛤」(幼年文学)と「猿蟹吊合戦」(幼年文学)の2点だけが記されていることから、9日付の日記に見られるようにこの2作品は並行して清書が進められ、13日に揃って完了したものと思われる。

明治24年6月)廿六日 雨 / 午後博文館使者来ル筆耕の件(136-137頁)

『猿蟹後日譚』は草双紙風本文書体で木版刷りされているので、小波によって清書されたテキストを元に、筆耕師によって本文版下が書かれ、彫師によって版木に彫刻されるという作業が必要になる。博文館は、清書原稿を受け取ってから2週間ほど、筆耕の選定に手間取っていたのだろうか。あるいは、白羽の矢を立てた筆耕師が居たものの多忙のため作業に着手できていないというような話だっただろうか。はたまた、どのような書風で進めていくか、例えば半丁ほど書かせた見本を何種か作成し、見本を元に打ち合わせをしたというような具合だっただろうか。

幼年文学シリーズの第1号、尾崎紅葉『鬼桃太郎』は活版印刷ではないが、明朝体の漢字と連綿しない平仮名による漢字平仮名交り文になっている。『猿蟹後日譚』では、仮名は連綿でない方がいいが書風はもっと江戸風の書写体がいい、というような具体的な方向付けが6月26日に定められたものか。

明治24年9月)廿日 小雨 / 在宿 午後安井台助来、猿蟹筆耕の件(143頁)

6月27日から7月、8月、9月19日までの日記に、「猿蟹」の話を見つけることができない。読売新聞の連載小説『ぬれ浴衣』や『ばアや』の話か、日常的な交友の話ばかりに見える。現時点で安井の名がフルネームで書かれているのは、この明治24年9月20日だけである。これが無ければ安井の件でGoogleブックス検索によって小波日記に辿り着くことも無かっただろう。9月20日の要件は、早めに版下原稿が欲しいという催促であったろうか。

明治24年10月)六日 晴 / 午前松居来る十一時桂舟来ル 猿蟹筆耕の件、直ちに安井へ送る(144頁)

清書原稿を元にした、筆耕師による版下原稿の完成が10月6日ということであって、版下原稿作成に着手したのは9月20日よりも前の話ではないかと想像するのだが、実際はどうだったのだろう。9月20日以降に筆耕師が決定し、2週間ほどで書き上げた――というようなスピード感だったのだろうか。

明治24年10月)十八日 晴 / 鈴木氏ヨリ五円来 / 午前桂舟ヲ訪ふ初不在後帰る猿蟹の表紙託す(135頁)

表紙絵の仕事が桂舟に託されたのは10月18日のことになるようだが、挿絵の話はどのようなタイミングで決まっていったものか、日記からは読み取れなかった。

明治24年12月)二日 晴 / 午前猿蟹校正来 桂舟ヲ訪ひそれより紅子を訪ふ(149頁)

仮に10月6日になってようやく「猿蟹」の版下原稿が一括で安井台助のところに渡ったのだとすると、2か月弱で(表紙を除く)12丁ほどの版木が彫り上げられ校正刷りが著者の元に届けられたということになる。

『猿蟹後日譚』は半丁が文字だけで成り立っているところは1行30字程度で10行分(300字程度)で、これが半丁の最大文字数であり、絵入りの丁だと1行16字程度(160字程度)で半丁分の文字数になる。間を取って、半丁分の平均文字数を230字としてみよう。

先日記した、生田可久が三村竹清に語った「文字ほり」の話に出てくる老版木師が「むかしは筆耕ほりは一時間二十三字」と言っていたということだから、「昔の筆耕彫り」レベルの彫工ならひとり実働10時間で半丁ほど彫り上げられる計算になる――とすると速度が半減していたとしても字彫りと絵彫りで2か月12丁というのは対応可能な工程か。

明治24年12月)十七日 晴 / 午前父上の命 目録(蔵書類)認む 今日幼年/文学第二出版 使者を遣はし廿部取寄せ(150頁)

『猿蟹後日譚』は、最初の校正刷りが出てから2週間ほどで出版となったようだ。


白百合女子大学児童文化研究センターのプロジェクト「小波日記研究会(小波日記を読む)」で『巌谷小波日記―翻刻と研究』刊行後も「明治28年以降の日記の翻刻に取り組み、その成果をほぼ毎年発表している」と書かれている成果は『児童文化研究センター研究論文集』に掲載されているという。

2021年11月7日現在も公式サイトの「研究論文集」の概説ページでは「児童文化研究センターでは、1996年度より、研究論文集を年に1回発行しています。(現在、頒布はしておりません。白百合女子大学学術機関リポジトリにて最新号より順次公開の予定です)」と書かれているが、機関リポジトリの「お知らせ」によると、実は2021年9月30日付で晴れて「「児童文化研究センター研究論文集」バックナンバーを全て公開しました。」ということに相成ったようだ。

そこで、「明治28年以降の日記」に安井台助の名(単に「安井」と記されているものも含む)が出てこないものか、念のため確認してみた。

4号(2000.03) 巌谷小波日記 翻刻と注釈:明治二十八年 無し
5号(2001.03) 巌谷小波日記 翻刻と注釈:明治二十九年 無し
6号(2002.03) 巌谷小波日記 翻刻と注釈:明治三十年 無し
7号(2003.03) 巌谷小波日記 翻刻と注釈:明治三十一年 無し
8号(2005.03) 巌谷小波日記 翻刻と注釈:明治三十二年 無し
9号(2006.03) 巌谷小波資料翻刻:俳句ノート(明治三十二年) 無し
10号(2007.03) 巌谷小波資料翻刻:手帳(欧州への船旅、明治三十三年) 無し
11号(2008.03) 巌谷小波資料翻刻:「伯林日記」(明治三十三年)前半部・俳句等の記録 無し
12号(2009.03) 巌谷小波資料翻刻:「伯林日記」(明治三十三年)後半部・日記(11.5~12.31) 無し
13号(2010.03) 巌谷小波資料翻刻:「伯林日記」(明治三十四年)前半部(1月~6月) 無し
14号(2011.03) 巌谷小波資料翻刻:「伯林日記」(明治三十四年)後半部(7月~12月) 無し
15号(2012.03) 巌谷小波日記 翻刻と注釈:明治三十七年(一月~三月) 無し
16号(2013.03) 巌谷小波日記 翻刻と注釈:明治三十七年(四月~六月) 無し
20号(2017.03) 谷小波日記 翻刻と注釈:明治三十七年(七月~九月) 無し
21号(2018.03) 巌谷小波日記 翻刻と注釈:明治三十七年(十月~十二月) 無し
22号(2019.03) 巌谷小波日記 翻刻と注釈:明治三十八年(一月~四月) 無し
23号(2020.03) 巖谷小波日記 翻刻と注釈:明治三十八年(五月~八月) 無し

ご覧の通り、結果は見事にゼロである。


ともあれ、安井が関係する書目として、次のように追加しておこう。

今回の副産物として、内容的に版木彫刻師としても関わっていたのではないかと思われる博文館「幼年文学」の仕事が、「下谷区坂本村」から「入谷の安井台助」へと移り変わる境目の頃の仕事だったということが期せずして判明した。

この「幼年文学」刊行の日付を眺めると、明治24年6月から10月にかけての小波日記に見られる「猿蟹筆耕」をめぐる動きは、『鬼桃太郎』が済み次第『猿蟹後日譚』に取り掛かる――そういう擦り合わせの話であったのかもしれない。