日本語練習虫

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三村竹清日記と『本之話』に見る字彫版木師の標準単価の話

先日「大正11年7月4日来話」とだけ記した生田可久からの聞き書きの件とは別に、やはり「大正11年春」に生田から聞いた話として三村竹清が『本のはなし』に書き残している話題がある。『三村竹清集2』では同書90頁に掲載されている、「文字ほり」と題された話。

生田可久君からの話に、此頃板木師の手間を一時間一円といふ規定にするといひたれど、さうもまゐらず、とうとう八十銭手間ときめる、字ほり一時間四字のよし、老板木師は嗤ひて、むかしの筆耕ほりは一時間二十三字は常のことなりしといひき、今小梅の木鏸(鈴木)*1といふが文字ほりの上手とぞ。大正十一年春のことなり。

この「文字ほり」の話は、早稲田大学演劇博物館紀要『演劇研究』29号(2006.3)に掲載された三村竹清日記「不秋草堂日暦(14)」(三村竹清日記研究会)の「大正11年3月起」の分に記されている。中野三敏が『師恩 忘れえぬ江戸文芸研究者』(岩波書店、2016)冒頭に「現存本は全冊巻頭に一、二丁分の内容細目が、それも蒙求題ふうに、筆者自身の手で奇麗に五字題にまとめて列記される」と記している通り、当該の日記には「板木師之手間」という題がつけられていた(「不秋草堂日暦(14)」218頁)。

「板木師之手間」と題された話は、大正11年春、4月18日の日記になる(「不秋草堂日暦(14)」234頁)。

午後生田君来 この頃板木師は一時間一円手間といふ規定をするとて とう〳〵八十銭ときめる 文字ほり一時間に四字のよし 老板木師はわらひて むかしは筆耕ほりは一時間二十三字のものゝのよし 今 小梅に木鏸(鈴木)*2といふ文字ほり上手のよし云々

こんな風に、『ほんのおはなし』や『本のはなし』の聞き書きが、竹清日記に記されているところと符合するものは、どれくらいあるものなのだろう……


大正11年春というと、徳永直に本木昌造伝を託した三谷幸吉が、印刷労働者の組合である神戸印刷工組合を経営の主体とする印刷会社の「神戸印刷工株式会社」を設立した時になる。

この活版印刷の方では築地活版、秀英舎、国文社など大手印刷事業者を中心として明治23年12月「東京活版印刷業組合」が設立されて以降、大阪、名古屋など地域単位の同業者組合が成立して久しい。明治末から大正初期の頃には、各印刷業組合が標準料金を定めて需要家に対して互いに安売りしないよう協定を結ぶ動きが盛んになっている。大正6年頃から9年頃には、第一次世界大戦の影響によるインフレに対応するため、標準印刷料金が毎年「〇割値上げ」要求されていたようだ(この項は『京橋の印刷史』年表によるもので、他日丁寧に裏付けておきたい)。

印刷業の経営層と労働者との間では明治末から大正初期にかけて賃上げ要求のストライキが発生する情勢になっていて、大正11年というのは、徳永直『太陽のない街』に描かれる共同印刷争議の前夜といった頃合いだ。

明治末から大正の頃、川瀬巴水や吉田博といった版画家たちによる新版画の活動があったことは理解しているが、大正半ば過ぎに文字ものの版下を彫るという需要がどれくらいあったのか。また(文字ものの)彫刻師たちによる同業者組合といったものが組織されていたのかどうか。背景が色々と判らないことだらけ。

*1:引用文中の「(鈴木)」という部分は割注式に文字組されている。

*2:引用文中の「(鈴木)」という部分は割注式に文字組されている。