日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

大杉栄・伊藤野枝訳ファーブル『科学の不思議』一九「本」

『それで、紙は何で出来るか分りましたが、今度は、どうして本を造るのか、それを知りたいものですね。』とジユウルが云ひました。
『僕は一日中でもお話を聞きます。お話ときたら僕、独楽も兵隊も皆んな忘れて了ふんです。』とエミルが合槌を打ちました。
『本を造るには二重の仕事が要る。先づ考へて物を書く仕事、それからそれを印刷する仕事だ。何か考へてそれをそのまゝ書き取ると云ふ事は、実に骨の折れる仕事だ。脳を動かす仕事は、肉体の労働よりも余計早く体力を消耗する。と云ふのは、我々は自分の出来るだけの力を吾々の魂である、此の仕事に捧げるからだ。これでお前たちは、お前たちの将来を心配して、お前たちが自分で考へる事の出来るやうに、そしてお前たちを情けない無智から救うために、いろいろと考へたり書いたりしてくれる人々に、十分感謝しなければならないと云ふ事が分かるだらう。』
『心に思ふまゝの事を書き取つて本を作るには、いろんな困難に打ち克たなければならないと云ふ事は、よく分りました。』とジユウルが答へました。『と云ふのは、半ペーヂばかりの年賀状を書かうとしても、僕は其の第一句でもう行き詰つて了ふんですもの。書き出しの文句は何て難しいものでせうね。僕の頭は重くなつて、眼は眩んで、真直に物を視る事も出来なくなります。僕文法をよく覚えたら、もつとよく書けるやうになりませうか。』
『さう云つちや可哀さうだが、しかし本当の事を云はう。文法は書く事を教へるものでない。文法は動詞を主格に合せたり、形容詞を名詞に合せたりする方法を教へる。此の文法の法則を破る事程人を不快にさせるものは無いのだから、確かに文法は必要なものだ。しかし、文法は書く事を教へるものではない。世間には文法の法則だけをうんと覚え込んでゐて、それでお前のやうに、書き出しに行き詰る人がある。
『言葉と云ふものは、頭の中の考へに着せる着物のやうなものだ。我々が無いものを着る事は出来ないやうに、我々の心の中に無いものは、話す事も書く事も出来ない。頭が命令してペンが書くのだ。だから、考へる事を勉強するのが、書く事を勉強する事になる。頭に考へが出来上つてゐて、そして書き馴れと云ふものが文法以上に言葉の法則を教へてくれた時には、立派な事がちやんとよく書けるやうになるのだ。頭が空つぽで、考へがない時に、何が書けるのだ!では、どうして其の考へを手に入れるかと云ふに、それは勉強と読書と、吾々よりももつと教育のある人との話によつて得られるのだ。』
『では、叔父さんがかうして話して下さるいろんな事を聞いてゐると、僕は書く稽古をしてゐる事になるのですね。』とジユウルが云ひました。
『さうだとも、例へば、二三日前に紙の源《もと》に就いて二行程書いてくれと頼まれても、お前たちには何にも書けなかつたらう。それはどうしてか。文法と云つても、お前たちはまだほんの少ししか知つちやゐないが、それを知らないからではなくつて、紙がどうして出来るかと云ふ考へがなかつたからだ。』
『その通りです。僕は紙が何から出来るのか少しも知りませんでした。今は、僕は綿は棉の木といふ草の円莢に入つてゐる毛房だと云ふ事を知りました。そして此の毛房から糸を造り、それから糸から布を造ると云ふ事を知り、布が使ひ古されると、機械でパルプにされて、このパルプが薄い板に引き延されて、それが圧搾されて遂に紙になると云ふ事も知りました。僕はさう云ふ事は好く分つたのですけれど、それでもまだそれを書くのは随分骨が折れますね。』
『いや、そんな事はない。お前はたゞ、今お前が私に云つた通りを其の儘書けばいゝのだ。』
『では、皆んな其の話す通りに書くんですか。』とジユウルが云ひました。
『さうだ。たゞ書く時にはね、話した通りを少し直すだけだ。話すのには、ひまがとれないけれど、書くのには少し時間がかゝるからね。』
『それぢや、僕直ぐ五行程かいてみよう。』とジユウルは云つて、次ぎのやうに読みあげました。『綿は棉の木といふ草の円莢に入つてゐる毛房であります。人は此の毛房で糸を造り、其の糸で布を造ります。布が着られなくなりますと、機械がそれを小さく裂いて、挽臼でそれを挽いてパルプにして了ひます。このパルプは薄い層に引き伸ばされて、圧搾してから乾かします。それが紙になるのです。さあ、叔父さんこれでようございますか。』
『お前の年頃としては大出来だよ。』と叔父さんはほめてくれました。
『ですが、これでは本に組めませんね。』
『どうして出来ない? いつかはそれが本の中にはいるやうになるのだ。私達の話はお前のやうにやはり物を知りたがる沢山の余所《よそ》の子供にも有益なのだから。出来るだけそれを簡単なものにして集めて叔父さんはそれを本にしようと思つてゐるんだ。』
『叔父さんが僕たちに話してくれるお話を暇な時に読める御本にするんですか。あゝ僕嬉しいなあ――叔父さん、僕叔父さんが大好きですよ。だけど、其の本には、僕の何にも知らない質問は書かないで下さるでせうね。』
『それもすつかり書き込むんだ。お前はホンの少ししか知つてゐないが、随分熱心に聞きたがる。それは好い性質で、ちつとも恥ぢるには及ばない事だ。』
『でも、その本を読む子供達は屹度《きっと》僕達の事を笑はないでせうか。』
『大丈夫さ。』
『それだと、僕は其の人達を皆な大好きだつて、書いて下さいね。』
『僕は、皆なが叔父さんから頂いた綺麗な独楽や、立派な鉛の兵隊さんを貰へるやうにと書いて下さいね。』とエミルが云ひました。
『気をおつけよエミル、叔父さんはお前の兵隊さんの事を本にかき込むかも知れないよ。』と兄さんがおどしました。
『書くとも、もうちやんと書いてあるよ。』と叔父さんは笑ひました。

底本:「定本伊藤野枝全集 第四巻」學藝書林(2000年12月15日初版、asin:4875170556)193-196頁