島木健作のデビュー作となった「癩」が徳永直らの推薦で発表されたことは、間宮茂輔の記事によって先日知った。
島木健作全集第十五巻(1981、国書刊行会)に再録された、『新日本文学全集・第十九巻・島木健作集』(昭和十六年五月、改造社)附載の自撰年譜、昭和九年の項に、かうある。
前年暮れから書きにかかつたものが正月に出來た。「癩」といふ百枚ほどの作品である。この時はじめて、島木健作といふ筆名を用ひた。しかし發表のあてがあるわけではなかつた。かねてから自分にいくらかの文學的才能のやうなものを感じてくれてゐた、香川時代からの親切な友人、米村正一に讀んでもらうことだけを考へてゐた。作品を米村に渡し、静養のために熱海にゐる昔の友人の所へ行つた。ここに滯在中、「癩」が創刊されて間もない雜誌、「文學評論」四月號に載ることにきまつた旨の知らせを米村から受けた。
原稿は米村の手からナウカ社(文學評論發行所)の大竹博吉氏に渡り、大竹氏からさらに、森山啓、徳永直兩氏に送られ、兩氏の推薦を得たのであつた。兩氏にはそれまで面識がなかつた。
そんな縁を、森山啓は島木健作追悼文中、「その頃、私は徳永直、窪川鶴次郎氏と一しよに「文學評論」の編輯の相談役のやうな役目を引受けてゐたが、その雜誌宛の当初作品といへば、生硬で沒個性のものが壓倒的だつた。その中で「癩」は題材も奇であつたが、文藝品としての魅力によつて群を拔いてゐたのである」と記してゐる*1んだども、その追悼文中に、世田谷転居の件がかう書かれてゐる。
島木君は印税が入つて、生活の自信もついたらしく、本郷の下宿を引き拂つて、私達が住んでゐた世田谷二丁目へ、門柱と前庭のあるなかなかいい家へ引越して來た。家賃十七圓、南向きの日當りのよい二階があるので、私自身がそこへ引越したかつたほどである。善いお母さんと奥さんとに、この家でお目にかかるやうになつた。嚴密に云へば、私が親しく知つてゐるのは、世田谷時代の島木君だけだといつてよい。
島木健作全集第十五巻の末尾に編者高橋春雄が記した年譜によると、島木は昭和十年五月に結婚し、「森山啓・渡邊順三の世話で世田谷區世田谷二丁目二〇二四番地に新生活を營む」こととなったといふ。しかし昭和十二年「二月、鎌倉雪の下六九〇に轉居」してゐる。一年半ほどの、短い世田谷時代である。
全集第十五巻冒頭の「世田谷日記」は、『文藝』昭和十一年五月号に発表された、昭和十一年三月の日記であるといふ。「隣人」らに関する記述は見あたらないんだども、「世田谷」日記らしい記述がひとつある。
三月×日
仕事一段落つきのびのびとする。犀星の「復讐」を讀み了る。
外が暖かさうだ。ふと思ひついて、富士山を見に行く、といふと大げさだが、豪徳寺の境内を通り拔け、原ツパを横ぎり、小川のちよろちよろ流れるところに出ると富士山がよく見えるのである。しかし今日は殘念ながらかすんでゐて見えなかつた。原ツパでしばらくひとり遊んで歸る。
ちなみに、島木健作『癩』は、青空文庫で読むことができる。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000008/card697.html
*1:昭和20年11月『新潮』42巻11号初出、『近代作家追悼文集成 30』所収。