日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

本づくりに関して中野重治が記したファーブルの考へ

徳永直は、昭和十六年の『グウテンベルグその他』さ、かう書いてゐる。

活字の發明者グウテンベルグといふ人の名前は、少しまへに中野重治が何かに書いた文章で承知してゐたが、グウテンベルグが十五世紀中葉の人であり、印刷術がドイツに始まり、フランスからイギリスヘ波及し、ついでイタリーその他へ擴まつていったことは今度知った。更に十八世紀になってフランクリンによつて、より完成され旺盛にされたことも、ずツとまへ「フランクリン傳」を讀んだとき一寸記憶に殘つてゐたが、これでより明瞭につよくわかった。

http://awozolab366.seesaa.net/article/135910196.html
先日中野重治の『空想家とシナリオ』を読んだ際にそれらしき記述があって密かに驚いた己なんだども、その時期の小説を収めた中野重治全集第二巻を眺めてみた限り、徳永が言ふ「中野重治が何かに書いた文章」が『空想家とシナリオ』で間違ひ無からうと思はれた。
http://d.hatena.ne.jp/uakira/20090608
全集第二巻の339-341あたりにかう書かれてゐる。省略しつつ記しておく。

またなるほど博物学者のファーブルは書いている。
「本をこしらえるには二通りの仕事がある。第一はそれを考えて書くものの仕事で、第二はそれを印刷するものの仕事である。本を考えてそれを指図どおりに書くということは、むずかしい、まじめな仕事である。いつたい、頭の仕事は手の仕事よりもずつと早くわれわれの力を疲《つか》らせる。なぜなら、そのなかにわれわれのいちばん大事なもの、すなわち魂を打ちこまなければならないものがあるからである。(略)」
「(略)こんにちでは書物は至るところに拡がつて、最も低い階級のなかへさえ、非常な勢いでこの知恵という神聖な糧《かて》を持つて行つている。印刷術が知られてから四百年ほどたつ。これを発明したのはグーテンベルグというドイツの人である。」

丸岡町立図書館編『中野重治文庫目録』によると、中野の蔵書には、昭和五年頃に岩波書店から出たファーブル昆虫記の一部が含まれてゐる。
山田吉彦林達夫訳『完訳ファーブル昆虫記』をざっと見た限り、第九巻(asin:4000039997)に、中野による最初の引用「本をこしらえるには」云々に通ずる話が記されてゐる。第十二節「こがねぐも類――所有権」の冒頭である。

一匹の犬が骨を見つけた。日陰に腹這いになって、犬はその骨を前肢の間に押え、舌なめずりしながら飽かず眺めている。これは他人が手を触れることを許されない犬の財産、その所有物だ。一匹のこがねぐも[♯「こがねぐも」に傍点]が網を織った。これもまた一つの所有物。しかも前者よりももっと本当の意味での所有物である。犬は運と嗅覚に助けられて、ふところもいためず、手間もかけずに、ただ拾いものをしただけのことだ。くも[♯「くも」に傍点]は偶然の所有者以上のもの、その財産の作り主だ。くも[♯「くも」に傍点]は材料を腹の中から出し、その構造を自分の技能から引き出したのだ。世の中に神聖な所有物があれば、この網こそまさにそれだ。
思想を集める者の仕事はこれよりずっと上だ。彼は別種のくも[♯「くも」に傍点]の網とも言える書物を編み、その思想で我々を教え、我々を感動させ得るものを作るのだ。

実は、『空想家とシナリオ』において「こんにちでは書物は至るところに拡がって」云々と書かれてゐる部分以下については、その姿をほぼそっくりそのまま全てアルス版『ファブル科学知識全集』第八巻、安谷寛一訳『日常の理科』第七七話「印刷術」に認めることができる。
んだども、「本をこしらえるには」云々の部分が「印刷術」には欠けてゐる。改題前の『化学工業の話』には載ってゐたんだらうか。
或は、己が見落としただけで、やはり昆虫記にそのものズバリの記述が?
ところで、大杉栄とも交流のあったらしい安谷寛一、訳者や編集者、著作者としての活動は昭和初年のものしか見られないらしく思ふんだども、まだ存命? とっくに逝去なさってる?