日本語練習虫

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渡辺順三が豪徳寺に移り住んだ頃の話

倉田稔『小林多喜二伝』(asin:4846004082)774頁に、やはり出所が明示されないで書かれてゐる、「当時、下落合にあったナップの事務所で会合が開かれた。このナップの会合で、渡辺順三は、民主的な討議のやり方などをはじめて見ておどろいた。」云々といふ箇所、これもやはり渡辺の自伝『烈風の中を』(1971、東邦出版社)に記されてゐる話であった。
第18節「私の最初のブタ箱入りとナップへの加盟」(116-120頁)の中に、かういふところがある。

プロレタリア歌人同盟の創立大会は昭和四(一九二九)年十一月三日、現在の小田急沿線の向が丘遊園(当時の稲田登戸)の山の中でやった。集ったのは、田辺、林田、坪野、井上、伊沢、南、浅野、室町三郎(本名松村道弥)佐藤松平、美木行雄、高橋福二郎、渡辺など二十名くらいではなかったかと思う。そして綱領として「無産階級解放運動の一翼としてのプロレタリア短歌運動の遂行を期す」が採択されている。

この集会が無届けであったといふことで、数日後、渡辺は、池袋署に一週間拘留されたさうである。

プロレタリア歌人同盟の創立大会が終ってから、ナップとの緊密な結合連絡が必要であるとして、山田清三郎の紹介で浅野と私がナップに加入、ナップから詩人の仁木二郎、白須孝輔、慎本楠郎、松元実(後に平林彪吾の名で小説を書いている)などが歌人同盟に参加してその連繋を計ることになった。これ以後私は、当時下落合にあったナップの事務所で開かれた会合にときどき出た。そしてここで私は中条(宮本)百合子、小林多喜二中野重治窪川鶴次郎、同稲子(佐多)、亀井勝一郎高見順、徳永直、森山啓、貴司山治大宅壮一金親清などの人々に会っている。
このナップの会合で、私は民主的な討議のやり方などをはじめて見ておどろいたことを覚えている。まず議長を選び、議事を整理し、議題の説明、質問、意見というようなやり方は、私にははじめての経験であった。何よりも私をおどろかしたことは、ここでは年長者とか先輩とか、社会的に有名であるとかいうことは、全然問題ではないことだった。

さて、話は数年間遡る。十三歳から家具屋勤めをしてゐた渡辺順三は、大正十二年四月、家具屋勤めをやめ、古くからの友人井上康文と共同出資して小さな印刷会社を興すこととなった。

井上康文と印刷屋をやろうと考えついたのは、知っている仲間の詩の同人雑誌や文学雑誌をやるのが主な目的だった。そしてそのあいまに自分たちの小さな雑誌でも出そうという野心もあった。

池袋に移ってから活字を買い「*1ケースを買い、そしてケースを立てて活字を詰め、植字台や解版台をつくり、名詞やハガキなどの刷れる小さな手フートという機械も買った。そしてようやく仕事も始められるという時になってあの九月一日の大震災にあい、家は倒れなかったが、活字を詰めたケースはみなひっくりかえって、活字の山ができてしまった。私はそれを見ながら呆然としていた。

しばらくは「ひっくりかえったケースもそのままだし、山になった活字もそのままにして、私は毎日ぼんやりしていた」という状態だったらしいが、「巣鴨の知人の印刷屋さん」から「もう少ししたら仕事が殺到しますよ」「何しろ下町の印刷屋はみんな焼けてしまって、残っているのは山の手だけですからね」と励まされて印刷所の整理を始めたといふ。

私は花岡謙二などと『短歌革命』や『生活を歌う』などの小雑誌を出した。そして自分で活字を拾ったり組んだりし、自分たちの雑誌をつくるのがたのしみだった。私の第一歌集『貧乏の歌』は、やはり自分で文撰も植字もやって作ったものだった。大正十三年の秋である。

ここで、渡辺順三が自分の印刷所のために買ひ揃へた活字が一体どういふ系統の活字だったかが気になる己なんだども、国会図書館OPACや「総合目録ネットワークシステム」を見る限り、『貧乏の歌』は最も古いものでも昭和になって紅玉堂書店から再版されたバージョンしか見あたらないので、確認できさうにないのが残念だ。

しかし井上君とは一年ほどで別れ、あとは私個人の経営になった。そのころには下町の震災地もおいおい復興し、そして不景気がやってきた。

それからが苦難の連続だった。何しろ私のところは組版専門で、印刷はよその工場にたのむのだから、利益はその方にとられてしまって儲けがないのである。一時は文撰、植字などの職人が六、七人もいたし、見習いの少年や、解版の女工さんもいた。ところが仕事をしても金はなかなかとれず、月末に職人の給料を払うために、着物を質に入れたり、ずいぶん不義理な借金もした。

前に書くのを忘れたが、印刷所をはじめるとき井上君と相談して光文社という社名をつけた。私は校正刷りや差替えや、配達などで忙しかった。妻も活字買いや解版やかな返しなどに追われていた。夕方職人が帰ってからも、私たち夫婦は深夜まで働いた。それでも満足に食えないのであった。一日一食で我慢したこともあり、隣家からもらった焼いもで飢をしのいだこともあった。このような生活がとうとう私のからだをむしばみ、大正十三年の七月はじめ、これまでにない大喀血をやった。

そして妻までが結核になるにおよび、印刷所をたたむことになったのが昭和五年四月、そして昭和六年の四月に、池袋から「豪徳寺の裏の小さな三間の平屋」へと転居したのだといふ。
大正末年にあった川崎造船所の大ストライキに参加して馘首され後に非合法活動に入ったといふ田中“いっちゃん”一郎をはじめ、「二日ぶりで飯にありつけた」「二晩徹夜がつづいているんだ、少し眠らせてくれ」などといふ訪問者が、この豪徳寺の渡辺家を次々と訪れてきてゐたといふ。さらに「またこの連中の紹介で、どこの何者とも知れぬ人々の会合にも、私の家はよく使われていた」と渡辺は書いている。

そのころの豪徳寺附近はまだまだ田舎で、近くにまだ水田があり、夏になると蛍がとんでいた。私の家は畑のまん中で、裏には大きな竹藪があり、少し離れて藁屋根の農家が二軒あるだけで、ほかには家はなかったので、そういう会合には都合がよかったにちがいない。

渡辺順三がまだ池袋に住んでいた最後の頃、石川正雄が昭和五年四月に上京して目白に住み始めてゐる。渡辺と石川正雄は互いに往来するやうになり、また渡辺は当時目白在住の吉田孤羊とも懇意になったといふ。
渡辺が豪徳寺裏に転居すると、「石川一家も、私のあとを追うように同じ豪徳寺裏の、私の家から歩いて五、六分の近いところに移ってくるし、吉田孤羊一家もまた石川君の隣家に移ってきた。」と『烈風の中を』には書かれてゐる。

私が豪徳寺に越してから、そのあとを追うようにして石川正雄が来たことは前にいったが、それから少しおくれて徳永直一家が近くに移ってきた。広島定吉青野季吉内田巌などは私より早く経堂に住んでいたし、その後島木健作、森山啓の二人の家は私が探して越してきた。手塚英孝は私の家の二階に住んでいて、この家の裏に間宮茂輔も移ってきた。山村房次も近くにいて、ときどき子供を連れて私の家にやってきた。橋本英吉は少し離れていたが、やはり世田谷の三軒茶屋だし、中野重治は石川正雄が北沢へ越したあとの家に住むようになった。川口浩一家も経堂駅の近くに来た。そのうち坪野哲久、山田あき夫妻も豪徳寺裏に移ってきた。
このような昭和十(一九三五)年頃には、ナップ時代の落合のように、特高警察のリストにのっているような人物が、世田谷の豪徳寺、経堂附近に集まっていたのである。それであるとき世田谷署の久保田という思想係の特高が来て、「あんまり仲間を世田谷へ集めるなよ。手数がかかって仕様がないよ」とこぼして行ったことがある。

次々に移転して来つつある頃には、「あんまり仲間を世田谷へ集めるなよ」と軽口をたたいていたやうだども、いったん集まってしまふと、“ここに来れば誰かは在宅で手間が無い”といふ話になったのは、間宮茂輔が書いてゐた話

石川君も私も豪徳寺裏に住んでいたころ、満州事変がはじまり、二・二六事件が勃発するという時代の激動期で、私たちの表現の自由が次第に失われてゆきつつあった。そういう抑圧の空気のなかで、近くに住んでいる気の合った連中が、月一回ぐらい集って腹にたまっている不平や不満をぶちまけあおうではないかと、徳永君と私が発起人になって、互助会というのをつくった。メンバーは十三人で当時もう六十歳を越えていた服部浜次老を会長格にして、画家の村雲大樸*2、ロシア語の翻訳をやっていた広島定吉ナウカ創立者の大竹博吉、劇作家の亀屋原徳(本名本地正輝)、朝日新聞の通信部長だった稲庭謙治、それに石川君も参加していた。

この互助会のことは、中野重治が徳永直の追悼文中で、次々に癌で亡くなった話として記してゐた。
ところで、橋本英吉が三軒茶屋に住んでいたといふ記述を見て思ひ出した話。庄司浅水が『愛書六十五年』中の「文化産業の地」に、『共同印刷五十年史』執筆のために徳永直を訪ねた話が出ていた。

当時共同印刷の植字工で、南喜一らとともに争議団の幹部の一人だった、徳永直がものした不朽の名作『太陽のない街』(改造社刊)は、この争議を題材としたものであることはあまりにも有名だ。戦時中、私は『共同印刷五十年史』の編纂参考資料として、争議当時の模様を尋ねるため、三軒茶屋の彼の家を訪ねたことがある。当時彼は本邦活版の鼻祖、本木昌造の伝記『光をかかぐる人々――日本の活字――』(昭和十八年河出書房刊)を執筆中だったが、争議のことにふれると、「私はあのころは、まだ下っぱだったのでよく分かりません」と、多く語ることを好まず、うまくかわされてしまった。太平洋戦争のまっさい中だったので、止むを得なかったのだろう。

この「三軒茶屋の彼の家を訪ねた」といふところに引っかかってゐた己なんだども。
争議の当時やはり共同印刷に勤めてゐた橋本英吉が三軒茶屋住まいだったといふなら、庄司は、三茶の橋本英吉と経堂の徳永直をまとめて取材し、後の記述がごっちゃになったものではあるまいか。

*1:“「”は原文ママ

*2:ママ