日本語練習虫

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東大司書の岡野他家夫・関敬吾と、職員萩原厚生

前回、12月18日付の記事へのコメント森洋介さんからお教えいただいた『日本近代文学大系45 柳田国男集』の月報、最初の執筆者が岡野他家夫で、冒頭にかう書いてあった。

柳田国男先生の風格に僕は、温厚な英国型紳士の映像と、該博な学者の実態を見た、とおもう。先生の大きな仕事にほんの僅かの交渉を持った僕にも多少の想い出がある。
昭和初年僕の東大司書在職のころだった。同僚の親友萩原厚生君(奄美大島出身。一高を経て東大仏文科卒)から、「兄貴がこんど旅に関する雑誌を出したいというんで、一つ相談に乗ってくれ」と頼まれた。厚生君の兄というのは、そのころ湯島切通へんで美術製版三元社を経営していた萩原正徳氏であった。そこで僕はその新刊雑誌の編集方針などについて何度か氏と協議を重ねた。結果、世上ありふれた観光案内誌めいたものではあきたりない。全国各地方の古来存在する伝説・土俗などの踏査紹介を中心記事とするものにしたい。それで民俗・土俗に関する権威と目される柳田国男先生の後援をまず頼もう。ということになって、僕は萩原氏を伴って何度も成城のお宅に柳田先生を訪ねて懇請した。先生は僕らの思案に賛成して、自分の意見や希望も出されたが、全面的な援助方を快諾約束してくださった。そしてやがてその新雑誌発刊の運びとなった。昭和三年に創刊の「旅と伝説」がそれだった。この誌名も先生と僕らが定めたものである。そして先生は自ら「木思石語」「伝説と習俗」「昔話新釈」をはじめ、十数篇のユニイクな論考を執筆された。
発刊後の一、二年間に僕も「昔の浅草」とか、「諸国の祭礼」などを書いた。同時にやはり東大図書館に勤務していた関敬吾、中里龍雄君なども執筆者の仲間に誘い入れた。現在、昔話の調査研究で知られる関君は、おそらくこの雑誌に書いたのが、やがて昔話に専念する動機となったのだとおもう。

このへんについては、関敬吾全集第8巻所収の、季刊『柳田国男研究』のために昭和四十九年七月に行はれて未発表となった後藤総一郎との対談「柳田民俗学をいかに学ぶか」で、関がかう述べてゐる。

私が卒業したのは大震災の翌年でしたが、大震災のときは大杉栄が殺され、私の同級であった朝鮮人も震災後みえなくなりました。若い学生にとっては、そういう事件は大きな刺戟になったんじゃないかと思います。
卒業の年の夏です、東京大学の図書館の震災後の復興が始まってまして、紹介されてそこに就職することになったんです。そのときの館長は姉崎正治さんでした。就職後何年か後に、萩原厚正という人が図書館に入ってきました。彼は東大で仏文学をやっていたんですが、卒業論文には芭蕉を選んでいた関係から和漢書の仕事ができました。彼は労農派といわれてました猪俣津南雄の『金の経済学』を代筆した男です。あるとき彼は兄貴の萩原正徳というのが雑誌を編集しているから何か書いてくれといって『旅と伝説』をもってきたんです。私はそれに「船幽霊の話」(昭和三年)を書きました。そうすると間もなくまた書いてくれといってきたんです。そこで哲学青年と船幽霊は結びつかないと思って、榊木敏というペンネームを使って「海の驚異」というのを書きました。その後も榊木の名で「伝説の島原」(昭和四年)、「高陽民話」(昭和五年)を書いたんです。

そして萩原正徳の紹介で柳田国男と面会した関。

そうやっていろいろ話をしているうちに、職業を尋ねられたんです。私が東大図書館の洋書目録を編纂しているというと、それでは君は外国語が読めるはずだからといって、タイラーの『原始文化論』を貸してくださろうとしたんです。

ちなみに、国立公文書館デジタルアーカイブで『職員録』を確認した限りでは、岡野他家夫の名が司書として見えるのは昭和四年のみ。昭和三年から五年に書けて関敬吾の名はあるが、萩原厚生の名は見えない。
ともあれ、再び対談から少々抜き書きしておく。

たまたま朝日新聞論説委員室に柳田先生を訪ねていったとき、そこに渋沢敬三さんがきておられました。先生に紹介されてはじめて知ったんです。渋沢さんは、庭の片隅に小さな小屋を建てて民具を保存するようにしましたと話された。あとで知ったんですが、それがアチックミュージアムであったんですね。

しかしそのころは唯物論研究会などに出席していて、一方で『共産党宣言』とか、エンゲルスの『社会主義の発展』などを友人に読むようにすすめられていたんです。当時そういう本は国禁の書ですから容易に手に入らないんです。だから、ドイツの本屋へ手紙を出して送ってもらって読んだことがあります。『共産党宣言』は伝えられていたように大変な名文でした。その他の国禁書は戦時中に風呂の焚き代として焼いてしまいましたが、この二冊だけは記念のために残しておきました。

関敬吾が木曜会に参加するのは、この後のことである。