日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

あをぞラボ徳永直『日本文化史展を見る』

ひさびさにseesaaの「あをぞラボ2.0號館366号室」へ、新しい記事を載せた。
徳永直『日本文化史展を見る』(『文学者』2巻7号)
これは、矢部貞治が見に行く一週間ほど前に朝日新聞主宰の皇紀二千六百年記念「日本文化史展」を見に出かけた徳永の感想記で、木村一信『「光をかかぐる人々」序説――創作経緯とモチーフを中心に――』において、徳永が『光をかかぐる人々』を執筆するきっかけになったと記された記事である。
確かに徳永は、感想文の末尾にかう記してゐる。

「印刷の歴史」を展覽した室は、もう最後のところだつた。オランダ渡りのその「ダルマ型印刷機」といふ新聞の記事にあつたのをめつけようとあちこち見廻したが、却々見當らぬ。人人は電送寫眞のところへたか[♯「たか」に傍点]つてゐて、片隅の人氣のないところへ、私は思ひがけず懷かしいものをめつけた。「引き手」がベラボウに大きい、不恰好な「ハンド印刷機」である。
 この式は現在でも「ゲラ刷り用」としてどこの印刷所でも使つてゐるが、同じ式でもここにあるのは隨分古い型だ。壓盤を支へてゐる鐵の支柱が不恰好に太くて、締めるギヤが蛇腹のボートではなくて、皷み型になつてゐる。締めるたびにハンドを握つて、片足を支柱に踏んまへ、ウ、ウンとガンばらなくてはならぬやつだ。私は「ああ、お前ここにゐたのか」といふ氣がした。私は廿何年もまへに、この印刷機と汗を流して喧嘩してゐたのである。當時私たちはこれを「手びき」と稱び「ハンド」とも云つてゐた。それから氣がついたのであるが、この「ハンド」が頭の上の出品目録によると、オランダ渡りのその「ダルマ型」であつた。
 これで印刷した「朝日新聞」第一號の新聞が、印刷能力一時間二百枚と書いた紙と並んである。新聞は菊二倍か美濃判かと思はれるが、しかもルビ付で、一時間二百の能力は大變である。ちよつと疑はしい氣さへする。
 そのダルマ型ハンドは明治三年となつてをり、廻轉式ロールが明治十年となつて、その隣りに並んでゐる。これは寫眞だが私のみたところ明治十年の廻轉ロール(これは普通平臺といつて、自動印刷機やオフセツト機なぞと區別されて職人の間では稱ばれてゐるが装置や使用が簡便なため、現在も多い)でないことは確かだ。私は明治卅二年生れだけれど私が働き始めた四十三年當時の平臺はまだ手廻式だつた。電動機がないためにコマネズミのように手で廻すのだ。東京では電氣が明治十年に一般に使用されたかどうかこれはいま調べてゐるが、もしこの電動機があつたとしても、自動式になつてゐるルラー調節機などは、私の記憶するかぎり大正も中期になつてからである。いづれにしろ印刷歴史として第二番に並んでゐる廻轉式印刷機の出品寫眞は年代と比べて大きな誤りである。こういふミスは非常に不快だ。出品の第三は既にマリノン式輪轉機にとんでゐるがこんな大雜把といふよりは粗笨な展覽の仕方には、單に「印刷歴史」に限らず、全體としてリアルな裏打がない氣がした。
 二時間たつぷりかかつて外へ出たが、だんだん考へてゐるうち、私は自分の經驗をとほして印刷の歴史といふものがうかんできた。一つの産業についても、働いた側の者からみると大分違ふ。これは傳へられる美術品の鑑賞や評價のうちにもそんなものがあるかも知れない。美術のことはわからぬが、印刷産業についてはこれは小説が書けるかも知れぬと思つた。

ちなみに、この箇所を除いては、河出版『光をかかぐる人々』の第一章「日本の活字」第一節に、この「日本文化史展を見る」が、ほぼ同じ内容で記録されてゐる。