日本語練習虫

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花田清輝が記した徳永直『光をかかぐる人々』評

先日、徳永自身が訂正の書き込みをした『光をかかぐる人々』についての情報が記されてゐることを知った中野重治『小品十三件』所収「徳永直選集の件」
そこには、かういふ記述もあった。

「光をかかぐる人々」については、小田切秀雄がさつき引いた『新潮小辞典』で触れてこう書いている。
「……戦争中の長編『光をかかぐる人々』(昭十八刊)も、日本においての活字印刷の労苦の歴史を人間中心に淡々と描くというやり方で戦争と軍国主義へのじみな抵抗の心をしめしていた。」
別に花田清輝がこの作をほめて書いていたと思うが今それを探しだすことができない。

今それを探しだしてみようぢゃないの。
花田清輝 徳永直」で検索した結果に続いて「花田清輝 日本の活字」でググることにより、「日本語の用例集め」サイトの「活字文化」の項さ、かう書かれてゐるのを知った。

花田清輝「小説平家物語

わたしは、日本の活字文化の開拓者の伝記に熱心する、かれの同類である三人のプロレタリア・インテリゲントたちのなりぶり構わぬすがたに心をうたれた。

これは、ものすごく、徳永直『光をかかぐる人々』っぽくないですか?
さういふ訳で不勉強をさらすんだども、生涯で初めて読むこととなった花田清輝。『小説平家』は全集の第十三巻に収録されてゐる。
平家物語の真の作者に関する探究を行ふ花田の思考と行動と創作がくねくねした文体で綴られた『小説平家』といふ名の長い連作エッセイ――あれれ、これはつまり『光をかかぐる人々』と同じフォーマットってことですか――いやいや、小説の章とエッセイの章と混ざってる章があるのかな――を、徳永を探しながら駆け足で読み進める己。
頭から読んでいって、といふか、ちゃんと読んでなくて文字面をスキャンしてゐるだけの己、だいたい一秒から二秒毎に次々頁をめくるので、何がどのように書いてあるのか実は判ってない。頭の奥にある仔チンパンジーの脳を使って、「徳永直」とか「日本の活字」といふ形に見える画像の姿を追ふ。
さうやって「読み」始めてから十五分ほど経過して、第五章「聖人絵」の最初の節に、かういふ記述があるのに出会った。

戦争末期、わたしは、徳永《とくなが》直《すなお》の『日本の活字』という小説を読んで感動した。日本における近代印刷術の創始者であるといわれている本木《もとき》昌造《しょうぞう》の生涯を調べている、以前は印刷工で、いまは作者になっているその小説の主人公が――つまり、徳永直自身をおもわせるような人物が、同じテーマに取り組んでいる、げんに印刷工をしている若い研究家のHにうながされて、本木伝の権威である三谷《みたに》幸吉《こうきち》に会いにいく。一面識もない相い手が、胃癌で入院しているというのに、である。

云々。
久保覚による巻末の注釈を見ると、この章は一九六七年四月の『季刊芸術』春季号が初出であるといふ。昭和五五年以前だから、浦西和彦編『人物書誌大系1 徳永直』の拾い漏れの一つでもある。徳永全集企画者や徳永研究者は、覚えておいてよい。注釈の続きに『「また、戦争末期、わたしは、徳永《とくなが》直《すなお》の『日本の活字』という小説を読んで感動した」とあることについては、本全集第二巻収録の『綜合雑誌評』(引用者注:「綜合」は原文ママ)を参照。』とあったので、これも見る。
全集二巻の「総合雑誌評」は、「いったい、総合雑誌とは何か。/一言にしていえば、寄席みたいなもんにすぎん。しかも、おそろしく気位いだけは高い、未熟きわまる芸人ばかりそろっている寄席だ。それでいて入場料は、だいたい一円見当だからおどろく。」といった調子で総合雑誌の論壇記事をこきおろす文章が連なっている。さうした中に、かう記されてゐた。

おそらく、論文らしい論文のないのに絶望して、編集者は、論文の随筆化を企てているのかも知れん。
それなら、いっそのこと小説でも取上げた方がましだ。徳永直の『日本の活字』を読む。ところが、これが又、最初は小説の随筆化みたいなものだ。失望を感じながら読みすすんで行くと、後半に至り、俄然、精彩を放つ。日本の活字の発明者本木昌造の研究家が、臨終の床のなかで、後学に語る。
「遠慮いらんよ、歴史とか研究とかいうもんはネ、すべてそんなもんさ、ああ、やっと探しあてたら、相手は死にかかっているなンて、ぼくもそんなことを何度も経験したよ、こんどは俺の番というわけだ、なアに、たいしたこっちゃないさ」
死を鴻毛よりも軽く考え、一生を棒にふっていささかも悔いない研究家の姿は、それまでマクラばかり読みつづけてきたせいか、何か私を遣る瀬ない思いに駆りたてた。

巻末の注釈によると、この「総合雑誌評」は、一九四二年四月の『文化組織』第三巻第四号に匿名(「過小人」という署名)で掲載されたものだといふ。時期を考へると、後に『光をかかぐる人々』として一冊にまとめられた雑誌連載の最初の分(単行本の最初の章)を読んですぐさま書かれた珍しい同時代評だ。昭和五五年以前だから、『人物書誌大系』の拾い漏れの一つでもある。徳永全集企画者や徳永研究者は、覚えておいてよい。
中野重治が「花田清輝がこの作をほめて書いていた」といふのは、この件だらうか。
注釈の続きに、かうあった。《本稿でふれている徳永直の「日本の活字」について、のちに著者はつぎのようにのべている。――「聖人絵」の件中略(引用者)――「かれは、『近代の超克』が合言葉になっていた当時、活字文化の名において――そして、プロレタリアートの当然の義務として、近代の建設のために苦難の道をあるいた名もなき人々のために物語ったのである」(「近代の擁護と超克」)》。
といふ訳で花田清輝全集第八巻収録の「近代の擁護と超克」(初出:図書新聞、一九五九年六月六日)も見る。
後に『小説平家』にも記した三谷のエピソードを冒頭に置き、続けて花田はかう記す。

戦争中、右の一節にぶっつかったとき、わたしは、ひどく感動したことをおもいだす。『日本の活字』を皮きりに、三谷幸吉から残された本木伝のデータに鼓舞されながら、徳永直は、日本における活字文化成立の歴史をかきつづけ、昭和十八年十一月、『光をかかぐる人々』を刊行した。わたしは、徳永直を、「心臆して大事をあやまった人々」の一人だとはいささかもおもわない。かれは、「近代の超克」が合言葉になっていた当時、活字文化の名において――そして、プロレタリアートの当然の義務として、近代の建設のために苦難の道をあるいた名もなき人々のために物語ったのである。すくなくともかれが、戦後、アメリカの占領下にあって、近代の賛美に熱中した意気地なしたちとは、少々、できのちがう人物だったということだけは、永久に記憶されなければなるまい。

云々。
昭和五五年以前だから、『人物書誌大系』の拾い漏れの一つでもある。徳永全集企画者や徳永研究者は、覚えておいてよい。
花田清輝全集の注釈相互参照による限り、花田清輝が記した徳永直『光をかかぐる人々』への言及は、以上三点になる模様である。
中野重治が書いた花田による評とは、図書新聞に載った署名記事「近代の擁護と超克」のことだらう。
さすがに眼の筋肉が疲れきってゐて二メートル先にある十センチ大の数字も滲んでしまって判別できない。しばらく爆睡して眼を休めねば。昨年までたくさん寝たあとは一・五が何とか見えてゐたはずの己。今春の人間ドックでは一・〇も見えない。一時的な近眼であってくれ。
テキストエディタの表示設定でフォントサイズを三六ポイントに変更して日記を綴る。
徳永直から託された宿題に鼓舞されてゐるのか憑れてゐるのか自分でも判らねえんだども、本木伝に付け加へるべきエピソードば発見しつつある己。そのエピソードについては後日改めて記す。