日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

徳永直・中野重治と三谷幸吉「再版原稿」

先日「 『印刷雑誌』の『光をかかぐる人々』評と評者「N」について」の記事中で、片塩二朗『活字に憑かれた男たち』(asin:4947613483)が複数の証言として《三谷幸吉の『本木昌造・平野富二詳伝』再版原稿を中野重治が徳永直から受け取った》と書いてゐるって話と、池澤夏樹『読書癖』(asin:4622045419)によると、旧丸岡町の図書館にある中野重治記念文庫に、中野が93箇所もの書き込みをした河出版『光をかかぐる人々』があるといふ話を記した己なんだども。
東北大学付属図書館から借り出してきた中野重治全集第24巻に収録されてゐる「小品十三件」中の「徳永直選集の件」(初出:『文藝』1969年1月号「徳永直選集のこと――小品十三件 一――」)に、かういふ記述があった。

そのころ私は徳永の近くに住んでいた。「光を……」を書くについて何彼《なにか》と意見を求められたこともある。本が出来ると彼は訂正、書入れをして一冊私にくれた。その訂正、書入の一部を、選集、全集編纂者たちのために書きぬいておこう。何ページ何行目ということはいちいち書かない。/「外題《げだい》料」というのを徳永は「広告料」と直している。アメリカが、「不遜にも武力をもつて開国を」の「不遜にも」を「ココトル徳永」としている。「しかし聖明を蔽ひ奉る幕閣の」「の「聖明を蔽ひ奉る」を「ココトル徳永」としている。

云々。精興社が刷った1977年版の全集第24巻355-356頁に、最終的には「もう少しあるがこれだけにしておく」とされる抜書きが、上記引用の他に幾つも残され/遺されてゐる。
池澤夏樹『読書癖』の話は、精緻な目録を作った旧丸岡町図書館の仕事を讃える意味合ひと、目録や現物が残されるに足りる作家とさうでない作家について、あるひは様々な人々の蔵書の死後の扱ひ一般について語ったものなので、中野重治旧蔵の河出版『光をかかぐる人々』の93箇所の書き込みが、すべて中野本人の筆跡であるかどうかといった確認が経られてゐない可能性がある。ひょっとすると少なくともその半分は、実は徳永による書き込みなのではあるまいか。
自主出版でもいいかと思ひつつ、できれば××ライブラリの一冊として『光をかかぐる人々』完全版の刊行を目指す己に、見ぬ世の友中野重治からの贈物(己のやうな若造に友と云はれて中野も苦笑するしかないだらうが、徳永選集としての『光をかかぐる人々』完全版にかける「誠實で眞摯な突撃を身をもつて敢行してゐる着實さと丹念さ」を、中野は買ってくれるだらう)。
いつか行ければいいねといふ程度に思ってゐた中野重治記念文庫なんだども、是非とも文庫中の『光をかかぐる人々』を確認しておかねばならなくなってしまった。頼めば複写を送ってもらへるだらうか。
さて、同じ「徳永直選集の件」の補注2(上記全集358頁)に、かういふ記述がある。

徳永は、「三谷幸吉氏が亡くなると、生前にあづかつた『本木昌造・平野富二詳伝』の再版原稿が、私にとつては遺言のやうな形になつた。」とも書いている。/そこで私は、徳永の遺族にこの「再版原稿」本のことをきいてみた。徳永自身のものは遺品として残つているが、死に際《ぎわ》の三谷から渡された「再版原稿」本は見あたらぬという。徳永は几帳面《きちょうめん》な人だつたから、三谷の死後、それを三谷夫人に返したのだつたかも知れない。それからさらに、貧しい三谷夫人も亡くなり、その遺品が誰か有志者の手に渡つたのだつたかも知れない。これは、三谷夫人|存命《ぞんめい》ちゆうのこととしても考えられる。しかもそうやつて保管された総体が、今度の戦争で灰になつてしまつたということも考えられぬことではない。私には今しらべようがないが、もしその書入れ本がどこかにあるのならば、『光をかかぐる人々』の訂正版とともに、この増補訂正本の『本木昌造・平野富二詳伝』が出版されることを望んでやまない。

片塩二朗『活字に憑かれた男たち』が記す「複数の証言」とは、信頼するに足りるのか。再確認が必要だらう。
かうして、徳永関連ではとてもありがたい情報、三谷関連ではちょっと残念な(しかし不在の証明はそれはそれでありがたい)情報が得られたわけなんだども。
中野重治全集と並行して宮城県立図書館から敢て古臭い角川版「昭和文學全集」第6巻『小林多喜二中野重治/徳永直』ば借り出してきて眺めてゐて。
徳永の「はたらく一家」「八年生」は今春より賃金カットのプロレタリアート=サラリーマンであるオトーサンの己は身につまされすぎ。中野重治「空想家とシナリオ」面白いぢゃないかよおい、ところで中野君は身近に“脳に翼が生えてる”タイプの人が居ましたか、居ないのに善六を造形できたんですか、旧正月からずっと『光をかかぐる人々』をどのように本にするか/できるかといふことばかり妄想してゐる己の話ですか、これは。
ともあれ、かうして、「 『印刷雑誌』の『光をかかぐる人々』評と評者「N」について」の記事で「N」は中野重治と思っていいだらうと記した己の確信は、ますます堅固になりつつある。