日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

徳永直『光をかかぐる人々』の惹句と寓意

先日(20100222)チラリと書いたんだども、昭和十八年十一月二十日付で初版が発行された徳永直『光をかかぐる人々』は、昭和十八年三月中旬に最初の“サンヤツ”新聞広告が各紙に打たれ、十八年十月・十一月に次の“サンヤツ”広告が各紙に出されてゐる。
『東京朝日』昭和十八年三月十六日の“サンヤツ”は、こんな感じ。

徳永直
光をかかぐる人々
舶来第一を謳歌した文明開化の世、活字に心魂を砕き西洋心酔に憤激し、かの模倣にあきたらず日本独自の印刷技術の進歩向上に敢闘した先覚者達の胸にたぎる創造的精神と不屈の闘魂を描いたもの。下旬頃発売

この日の河出書房の広告欄を独占してゐる。
一方、『読売報知』昭和十八年三月十七日の“サンヤツ”は、こんな感じ。

徳永直著
光をかかぐる人々
文明開化時代の舶来第一から日本独自の印刷技術を創始した先覚者の、創造的精神と不屈の闘魂を描く

エラスムスの「勝利と悲劇」と、河出書房の広告欄を分け合ってゐる。
これが、初版発行間近の十八年十一月十四日の『読売報知』では、かういふ具合。

光をかかぐる人々
徳永直著
価二・九二
本邦独自の印刷術の源を探り、正確な史実の中に文化の発展を具象した長篇小説

かうした「宣伝広告」には全く言及してをらず、あくまで『光をかかぐる人々』といふ小説についてのみの評なんだども、金子博が『國文學 解釈と鑑賞』(1983年8月号)の特集「編年体・戦時下の小説」の昭和十八年の項で徳永直『光をかかぐる人々』を取り上げ、かう記してゐる。

徳永は決して本木の「伝記」を書こうとしたのではない。「伝記的なものとするか、活字ないし印刷術の歴史を中心とするかについて迷つたが」「後者におちついた」(あとがき)というが、おそらく初めからその意図は「歴史」にあった。第一、個人的な「伝記」を書くには資料は全く不足していた。第三章あたりから、作者は淡々と長崎を中心とする、「攘夷」ならぬ「開国」の歴史へと進んでいく。そこに「寓意」が潜んでいた。動乱の季節の中に、新しい文化が秘かに用意されていたというわけなのである。
ところで、活字(印刷)とは何か。――「こんな簡単な器具で/世の中を支配してゐるものは他にあらうか?(略)白い紙に黒いインキ/ただそれだけで/正義を支持し不正をこぼつ/この印刷者の力に向ふ者は誰か?」(活字の歌・世界印刷年表・一八五五)――作中にある詩の一節である。活字は、新しい文化、科学であり、情報であり、思想であった。それが秘かに生まれ、育ち、「時機の到来を待つ。」――活字に「寓意」されたものは明らかである。それは徳永の中の革命の思想であり、それを活字の歴史に潜ませて、時局に対峙していたのであり(あるいはやりすごそうとしていたのであり)、「光り」とはそのことであった。
ヨーロッパ文明の放散は「侵略と戦争」の放散であり「文化」の放散でもあった。この「歴史の大きな矛盾を簡単に説明できない」と徳永はいいつつ、急進的開国論者であり、地道な働き者である本木を描く。おそらく徳永は、「日本の活字」などという、一見日本主義に参入するようなそぶり[♯「そぶり」に傍点]を見せながら、合理主義的な技術者である本木をもって、ファシズムや日本主義イデオローグに、あるいは「事実」として戦争を承認する十八年当時の多くの論調などに対峙しようとしていた。

先日の記事(20100219)で引用した渋川驍の記述にもあったやうに、確かに昭和十八年・十九年といふ当時、上述の広告惹句に見られるやうな「日本主義」のそぶりを見せねば『光をかかぐる人々』の刊行ができなかっただらう点については己も同意するんだども、『活字に「寓意」されたものは明らか』だらうか。
金子は上記の後にかう書いてゐる。

もはやこの歴史小説の「寓意」は明らかになった。その続篇を二十年まで徳永は構想するが、それは書かれることがなかった。

いやいや金子先生、1982年5月10日初版第一刷発行の『人物書誌大系 1 徳永直』 (asin:4816901302)によって「続篇」の存在は明らかなのだし、「日本主義」のフリをして出した『光をかかぐる人々』新刊広告(昭和十八年十月十一日付東京新聞)に隣接して、「続篇」の大きな柱であるダイア事跡の紹介記事を徳永は書いてゐるのだし、やはり「寓意」はさう明らかぢゃないんぢゃないの?