日本語練習虫

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『印刷雑誌』の『光をかかぐる人々』評と評者「N」について

先日「徳永直『「印刷文化」について』について」の記事中で後日記すと予告した、『印刷雑誌』の『光をかかぐる人々』評と評者「N」について。
この『印刷雑誌』の『光をかかぐる人々』評は、浦西和彦編『人物書誌大系 徳永直』(asin:4816901302)にも、またそれを補ふ浦西和彦「拙編『徳永 直<人物書誌大系I>』補遺」(熊本近代文学研究会編『方位』第五号)にも拾はれなかった同時代(昭和18年)の『光をかかぐる人々』評なんだども。
この時期の『印刷雑誌』を編集してゐた馬渡力は自身が取材協力者ともなってをり、また徳永に寄稿を要請した『「印刷文化」について』といふ文章も『印刷雑誌』上に存在することから、書評なり紹介記事なりが載らなかった筈は無からうと己は考へ、バックナンバーを確認する機会を窺ってゐた。
漸く印刷図書館で拝読する機会を得た昭和18年12月の『印刷雑誌』26巻11号に、『日本の活字「光をかかぐる人々」を読んで』と題された評が、かう書き出されてゐる。

徳永直の「光をかかぐる人々(日本の活字)」を讀んだ。かつて文撰工であり植字工であつた氏の、三ケ年にわたる力作で、我が國近代活版術の祖といはれる本木昌造の傳記探求を中心に、日本の近代活字誕生のいきさつをあつかつた、歴史小説である。

以下、紹介内容の書きぶりは、途中まで『人物書誌大系 徳永直』が拾ってゐる伊藤整の評(「東京新聞昭和18年12月28日)などと余り変らないのだが、終盤にかういふ記述が出てくる。

この小説は、いはば第一部で、二部三部とあとが續けられると思はれる。僅かに本木昌造の三十幾歳邊まで、換言すれば日本の活字の誕生がおかれた歴史的、政治的、社會的な輪廓が描かれたところで終つてゐる。作者にとつての眞の難關は今後にのこされてゐる。たとへば、幕末に長崎へ渡つてきた印刷機、活字が、その以前に於て支那、南方諸地域にどのやうに渡來してきてゐたか。幕末の東洋文化都市上海に於ける印刷文化の状態は如何? なぞさつぱり分つてゐないからである。手がかりさへないやうである。/しかしそれが分らなければ、押し寄せてきた西洋印刷文化の波の正體を知ることは不充分である。それが引いては西洋印刷文化と取組んだ、日本の先驅者たちの歴史の不明瞭さの重要な起因となつてゐる。

つまり、続編で書かれるべき内容に明るい人物が記した書評と見られるのである。
評の末尾には「N」といふ署名がある。日本語活字の歴史に深く考察を進めるこの「N」とは誰なのか。
署名の「N」は実は「M」の誤植であって、やはり馬渡だらうか。それとも同じく取材協力者だった川田久長(kawata hisaNaga)か。当時十歳にもなってゐなかった中野三敏は除外して良からうから、長沢規矩也だらうか。
しばらく考へこんでしまった己なんだども、いったんこの問題を離れて昭和30年代少年マンガ吹き出しアンチゴチについて府川充男さんと意見を交はしてゐる最中に、書評の中盤の表現が評者推定の重要なヒントになると気づいた。

幕末明治維新の歴史には分らないことが、まだまだ澤山にある。まして印刷の歴史なぞ、穴だらけで模索の範圍を脱しないのは當然かもしれない。作者の探求の小舟は、氣の毒なほどよちよちとして進まない。日本の活字の探求から、幕末明治維新と洋學との關聯に、そして近代科學移植のための苦鬪に身を捧げた人々に、小説の間口は擴げられて行く。しかるに作者の武器は、「私」といふ裸身の心情に於ける誠實だけである。特定の思想では、なに一つ武装してゐない。ただ自分の手で觸つて見て、確かなことだけを記さうと努めてゐる。/些か文藝批評的言辭を弄すれば、この力作は、作者がここ六七年間に發表してきた作品の一つの頂點をなし、所謂私小説からの地味で背伸びのない脱却を試みてゐる。その反面に常識的だといへばその通りであり、一人の人間が手で觸つてみる範圍には、おのづから限界があることが露出される。そのため、宏大な題材の重さと荒さが、讀者にのしかかつてくる。しかしこれは、このやうな場合に日本の小説の陷ちいる一般的缺點で、なにもこの作者だけのことではない。かへつてかかる缺點を恐れず宏大な題材に、誠實で眞摯な突撃を身をもつて敢行してゐる着實さと丹念さを買ふべきであらう。

つまり評者は、他の著作も含めて徳永の文章を気にかけてゐて、また同時代の日本文学全般にも目配りをしてゐる人物だといふことにならう。
印刷・出版関係者ではなく日本文学関係者から、徳永とのつながりを持ち活字史・印刷史への関心もしくは知識を持つ人物を探すとなると、「イニシャルN」に該当する飛び切りの候補が挙げられる。
すなはち中野重治である。
中野重治は、日本近代文学館に遺された徳永関連資料にも見えるやうに、獄中からのものを含め徳永とは何度も文通してゐるし、徳永追悼の文章へ「あれ(引用者注:『光をかかぐる人々』)が一冊になったときには、私は、年月日、人の名まえなどの正誤一覧表を作つて彼に渡した」(中野重治全集第18巻、asin:4480720383、340頁)と記し*1、また同書が未完成に終ったことを惜しむなど、強く気にかけてゐた。
中野はまた、片塩二朗『活字に憑かれた男たち』(asin:4947613483)が確かな筋の情報複数の証言として《三谷幸吉の『本木昌造・平野富二詳伝』再版原稿を徳永直から受け取った》とする人物でもある。
その再版原稿に基づく情報や、自身の感想を記したものか、池澤夏樹『読書癖』(asin:4622045419)によると、旧丸岡町の図書館にある中野重治記念文庫に、中野が93箇所もの書き込みをした河出版『光をかかぐる人々』があるのだといふ。
昭和18年12月の段階で『光をかかぐる人々』初版の書評を上記のやうに記した「N」といふ評者像に、中野重治ほど相応しい人物は、他にあるまい。
現時点でのひとつの確信として、さう日記さ書いておく。

*1:残念ながら、中野が徳永に渡したといふ正誤一覧表は日本近代文学館の関連資料中には遺されてゐない。己は同館の資料現物を拝見したんだども、徳永宛中野重治書翰は『文学者の手紙 4 昭和の文学者たち』(asin:4891779942)に収録された分しか存在しなかった。昭和19年に出された『光をかかぐる人々』第二版に添付された正誤表――正誤表を有するとされる第二版の存在自体について己は『人物書誌大系 徳永直』によって知った――に、中野が送った正誤表がそのまま反映された可能性はある。