日本語練習虫

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間宮茂輔と徳永直の近所づきあひ

筑摩書房の『現代日本文學大系』第59巻の月報に、間宮茂輔が「徳永直の孤独な抵抗」といふ評を書いてゐる。

徳永直の文学についてはすでに多くの論述がなされ、評価もいちおう定ったかのように見えていた。そのような徳永の生涯とその作品が七〇年代のいま改めて解明の対象になっていることを、私は、軽々に見過ごせない気がしている。

さう書き始めた評を、間宮は、かう結んでゐる。

徳永はさらに昭和十八年の時点で、このときは隣人として見ていたわたしでさえため息が出るような、長い探求のすえ長篇『光をかかぐる人々』を完成している。日本における印刷と印刷労働者の人間関係を、歴史的に描き上げた大作であった。なお、徳永がひそかに井原西鶴のレアリズムを研究していた事実に触れたいが、その余地がないので、戦後の『あぶら照り』などに西鶴研究の若干の照り返しがあるのかも知れぬとだけ言っておく。

1969年から70年にかけて『文化評論』に間宮が書いた、「作家同盟の周辺にいて」および「声なき時代の文学」といふ連載を試しに読んでみたところ、間宮が徳永の『光をかかぐる人々』執筆を「隣人として見ていた」といふ状況も記されてゐると判ったのでメモ。
まず、『文化評論』1969年12月号、「作家同盟の周辺にいて(三)――プロレタリア文学運動の回想――」より。昭和八年に検挙され、十年に出獄した間宮茂輔は、「渡辺順三の世話で、渡辺家のとなりに居を定め」、最終的に転向出獄することとなった自身の問題と向き合ふ覚悟を決める。

その頃、世田谷の豪徳寺周辺から経堂へかけての地域には、プロレタリア文化、文学、芸術運動の関係者が、いつとはなく大勢あつまり住んでいた。渡辺順三の家を起点として地図をえがけば、渡辺家の二階には湯浅克衛(「焔の記録」の作者)が、その湯浅が他へ移ってからは手塚英孝が来た。わたしの家はその北側であり、そこから四、五丁はなれた横丁には島木健作が住んでいた。島木の「癩」は徳永などの推せんで『文学評論』に発表されたものである。島木の家から西へ三、四丁ほど行った玉電の手前には森山啓が、玉電の線路をこえて八幡社の森をまわった辺りには徳永直の家が在つた。これにくわえて経堂方面には青野季吉、村雲大撲子、広島定吉(ロシア文学者)、松村一人(哲学)、内田巌(画家)、その他がおり、梅ヶ丘には本郷新がすでにアトリエを建てていたのかもしれない。いずれにせよ、このように大勢の「左翼分子」が集り住んでいる地域はめずらしく、まわってくる特高憲兵も「まったくわしらは助かるよ、だれも留守だなんてことはないのだから」と言っていた。

この「左翼分子」の集住については、栗原幸夫氏が「私が駆け出しの編集者だった一九五〇年代のはじめ、仕事のひとつに「豪徳寺参り」というのがあった」と敗戦後間もなくの頃の様子を記しておいでである。
http://blog.livedoor.jp/kuri77/archives/929159.html
つい先日『日本プロレタリア文学大系』各巻の解説を通読したばかりの己には、栗原氏の上記「小田切さんとの半世紀」が、感慨ひとしお。
間宮の回想に戻る。

渡辺順三と徳永直は、中野重治が転向して出獄したとき、留守に起ったいろんなこと、特に『文学評論』を出すまでの経過について話をするため、彼を訪問した。ところが中野は壁を向いたぎり徳永たちへは振向かない。中野の家は玄関から奥まで見とおせる。壁に向って徳永や渡辺に背をみせたまま、いくら呼んでも凝とうごかない中野が、どんな心境であったかはいうまでもなかった。このはなしを聞いたとき、わたしの心を掠めたおもいは、「みんな苦しんでいる、みんな自分自身でたたかっている」ということであった。
わたしは甘ったれた根性から、無意識にせよ、「転向仲間」を「転向のみちづれ」を得ようとしていた。自分からこう悟った以上、わたしには創造活動のなかで自分を鍛え直してゆく他なかった。

引き続き、1970年1月号の「声なき時代の文学(一)――プロレタリア文学運動の回想・続編――」に移る。『現代日本文學大系』における徳永評でひとこと触れられた徳永の西鶴研究の話が、記されてゐる。

当時わたしの住んでいた世田谷・豪徳寺の近傍には、多くの進歩的文化人、学者、画家、そして作家たちが住みついていたことはすでに述べた。これらの人たちは親睦的な集りをやっていたが、それとはべつにわたしたち文学関係者が小人数の研究会ふうの集りを時どきやっていた。常連としては、徳永、中野、渡辺、手塚などであり、臨時にだれかを訪ねてきた作家をくわえることもあった。わたしは石上玄一郎や金史良がくわわった日のことを記憶している。
そうしたある日の集りで井原西鶴のことが話題になった。そのまえから中野は「ハイネ」や「森鴎外」の研究をはじめていたし、徳永は「活字の歴史」を調べていて、その結果を彼らしく語っていたが、西鶴の話が出た日の徳永は終始だまりこくっていた。徳永にはそういう突然だまりこんでしまう癖があって、何か考えこんでいるらしく、反対方向へぼんやり歩いて行ったり、銭湯で一緒に入った渡辺順三のきものを着て、帯をしめるまで気づかなかったりもする。だから彼の沈黙はだれもふしぎにおもわなかったが、それから三月ほどすぎると、徳永がしきりに西鶴を語るようになってみなをおどろかした。
西鶴のレアリズムは凄い」
そんなことを口にする徳永は三つきまえまで井原西鶴を一作もよんでいなかった。彼がのちに語ったところによると――彼は自分の不勉強を恥じ、中野や間宮の識っていることを、自分がしらないでは話にならぬと考え、ひそかに西鶴を勉強したらしい。

いやあ、文学のアウトサイダーで良かったなぁ、己。「このときは隣人として見ていたわたしでさえため息が出るような、長い探求のすえ」っていふ一つの文から、どさ行ぐんだか知ゃねけっど行ってみっぺと気軽に出発して、その「隣人」ぶりに出会へたことを、こんな話が隠れてたのか!――と素直に未知との遭遇として喜べるもんなぁ。
不勉強は恥ぢなくていいよ、徳永君。不勉強バンザイ!!
さて、間宮は続けて、かう書いてゐる。

当時の徳永はわたしと共同で「旋盤の歴史」を調べていたが、単独でも「活字の歴史」を熱心に追求し、のちに長篇『光をかかぐる人々』一巻にまとめ上げたことは一般にも知られている。

この徳永と間宮が《共同で「旋盤の歴史」を調べ》ることとなった話が書かれてゐる『文化評論』1970年8月号の記事については、日を改めて続報したい。