日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

紅野敏郎『「學鐙」を読む』を眺める

徳永直『光をかかぐる人々』執筆時点の“浮世離れ派”の世情――日々敵機が上空を飛んでゐる頃に上野の帝国図書館や九段下の大橋図書館に通ってゐるやうな人々の様子――に触れる意味で、紅野敏郎『「學鐙」を読む』(asin:4841905162)の昭和10年代あたりを眺めてゐた。
『光をかかぐる人々』第7章「最初の印刷工場」第3節で言及されてゐる川田久長「蘭書飜刻の長崎活字版」が『學鐙』昭和17年9月号に載った他、昭和10年代中盤の『學鐙』では、蘭学の担い手に関する振り返りや、出島版に関する考察など、まるで徳永の執筆を後押しするために書かれたかのやうな文章が集められてゐる。
まぁ“浮世離れ派”の中でさうした波が湧き上がってゐて、その波に徳永も(無自覚であったかもしれないが)乗っかってゐた、といふことなんだらうけど。
結局己は『「學鐙」を読む』に『學鐙』総目次といったものが無いことを不満に思ひ東北大学付属図書館が所蔵してゐる『學鐙』バックナンバーの、昭和16-18年のものを全部見てきてしまったんだども、それはさておき。
2つだけ、『「學鐙」を読む』に言っておきたいことが。
1つは仙台ローカルネタで、『學鐙』1994年3月連載分の「佐藤功一・今和次郎森田草平・北沢新次郎」の項(『「學鐙」を読む』346-35頁)について。
建築関係の古書探訪に纏はる話を記した佐藤功一の寄稿は昭和14年6月号から「是蒙誌(これもうし)」と題して3回に渡って連載されたといふんだども、昭和14年8月号には、鈴木安蔵「明治初年に於ける丸善出版の政治文献」も載ってゐて、かうした文が綴られてゐたといふ。以下『「學鐙」を読む』349-350頁。

「今では仙台にも洋書、高級文具類を販売する店は、丸善支店の外にも一、二出来てゐるやうだが、十七、八年前には丸善支店唯一軒だつた。従つて二高生としての私の生活の半ばは丸善に結びついてゐたのである。学校の授業を極度に嫌ひ、且つ図書館の利用といふことをしない習慣の私は、何でも読みたいものは手当たり次第買ひ集めて家に籠つてゐたのであつたが、そのうちでも哲学、政治、文学、詩歌から絵画集にいたるまで、碌に読みも又読めもしない洋書を絶えず丸善から買ひ込んだのであつた。その外オノト万年筆からアテナ・インク、原稿紙にいたるまで私の書斎は浄瑠璃のレコードを外にすると、丸善の出張所位の趣きはあつたと苦笑させられる。」

とあるが、仙台=二高=丸善支店というつながりの、まさに当時の風俗と直結する挿話として貴重である。京都=三高=丸善支店ならば、人はただちに梶井基次郎の短編「檸檬」を思い浮べるが、仙台においてもつまるところ同様であつたのだ。

仙台市民の己は、せっかくだからここに、佐藤功一は旧制二高の最初期の卒業生で、鈴木安蔵は旧制二高がまだ片平に校舎を持ってゐた頃の最後期の卒業生だといふことや、両者が共に学んだ可能性がある理系の木造教室が現在の東北大学片平キャンパスに残る最古の建造物として生き残ってをり、また鈴木が卒業する頃の帝大側の建物も幾つか片平キャンパスに残ってゐるといった雑学を付け加えておきたい。
ちなみに佐藤が建築した昭和期の宮城県庁の建物は記念に尖塔のみ遺されてゐる以外今は無いが、佐藤が建てた大東京火災の建物は今も健在だ。
檸檬」の舞台になったのは明治40年から昭和15年まで三条通麩屋町にあった二代目京都支店、大正4年に解説された仙台出張所が支店に昇格するのが大正5年。片平キャンパスの近所にあったこの一番町の丸善仙台支店は、テナントとして入居してゐたビルの建替え前提の解体により、先年閉店してゐる。
明治末から大正初期、全国のナンバースクールスノッブだらけだったから丸善が仙台に進出できたのか、丸善が出てきたことによってスノッブ熱が加速したのか、旧制高校生の中でも上記鈴木などは珍獣の類だったのか、そのへん考へてみても良い。
とまあ1つめは、『「學鐙」を読む』への感謝。
2つめは、『「學鐙」を読む』への疑問。
379頁、「大久保利謙・後藤利夫・亀井高孝・勝俣銓吉郎・吉田小五郎・呉茂一ら」と題された項目の冒頭にかうある。

一九四二年(昭和一七)六月五日。この日は「ミッドウェー海戦」、日本は、多くの空母を失ない、戦局はここで大きく転回。この年末にはガダルカナル島の「撤退」となる。「撤退」という言葉がごまかしの不思議な語として、今日にまで私の心に残っている。

責め手が「ロケット」と強硬に主張する物体のことを「ミサイル」と呼んでゐたはずの受け手が何故か「飛翔体」と言ひはじめたから今日にまで我々の心に残ってゐるのと同様、当時「撤退」の事実を「(後方に)転進」と大本営が言ひ張るのを「不思議な語」と認識したんぢゃなかったか。
1994年10月の『學鐙』にこの文が載った時も、『「學鐙」を読む』へと編集された際も、この点について誰も何も言ってないんだらうから、《「転進」という言葉がごまかしの不思議な語として》に直したいと思ふのは、己の読み違へなんだらうけど、何か心にひっかかってしょうがない。