日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

昭和十七年東大図書館にゐた徳永直知人のS司書を捜す

徳永直を書庫に誘ひ、サミュエル・ダイアの記事を載せた支那叢報の存在を探し出してみせた、「本郷の大學圖書館」の「司書をしている知人のS氏」
http://d.hatena.ne.jp/HikariwokakaguruHitobito/20091103
――について、詮索してゐる。

試みに「東大 司書」でググった中で、「神保町系オタオタ日記」の記述が目に止まる。
http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20070406/p1
『矢部貞治日記 銀杏の巻』、昭和十六年五月五日の項から昭和十八年一月十九日の項にかけて、断続的に「鈴木司書官」のことが出てゐる模様。
国立公文書館アーカイブによると、司書官といふ文官であった鈴木繁次は、昭和十八年一月十九日、急性肺炎での逝去に伴ひ、何らかの勲位を授かってゐる。
東京大学百年史 部局史 一』二四三頁には、鈴木司書官について、かうある。

昭和十八年(一九四三年)一月十九日、鈴木繁次研究室事務主任死去(研究室事務主任とは部内の呼称であり、身分は高等官たる「司書官」であった。氏は昭和六年二月以来その職にあり、頗る重きをなしていた)。後任者植村長三郎(京都帝国大学司書から転任)に対して、一月三十一日付で助手任用発令。

現在の東京大学の附属図書館OPACで『The Chinese Repository』の所蔵を調べると、「総合図・書庫」と「経図」に所蔵されてゐるといふから、当時も、附属図書館(総合図書館)か、経済学部図書館のどちらかが、その「本郷の大學圖書館」に該当するだらうし、徳永の『光をかかぐる人々』中に「この大學圖書館は、關東大震災ののち、ロックフエラー財團の寄附で、出來たもの」といふ記述もあるから、訪れた書庫は附属図書館(総合図書館)で間違ひ無からう。

当時の東京帝国大学では、各研究室に司書がゐたのか、学部単位なのか、全学連携してゐたのか。
河村俊太郎「東京帝国大学における学部図書館の管理運営」(東京大学大学院教育学研究科紀要、2008)を見ると、どうも中央館である附属図書館と、学部図書館とが、補ひつつ独立もしてゐたらしく見える。
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/28640/1/edu_48_27.pdf

東京大学百年史 部局史 四』第二十六編「附属図書館」一二二八頁には、かうある。

昭和七年度には司書の定員は十五名となり、昭和十五年度末には全職員数は百名前後であった(注)。ところが翌十六年三月と四月には司書が一名ずつ減になって定員十三名となり、翌年一名の増があったが、昭和十八年のはじめには行政簡素化のため書記、雇、嘱託各一名、傭人二名、計五名の減、といったことがそのときどきの商議会に報告されている。また戦局の進展とともに応召者が多くなり、そのほかにも「職員中ニ退職希望者続出シテ欠員現在二十四、五名」(昭和十九年三月十五日「商議会議事録」)に達した。戦争が終結した昭和二十年八月には、名簿などで調べると、全職員数は六〇名内外であった。
(注)『東京帝国大学学術大観 総説・文学部』一三三頁。

この十数名といふ司書の人数が、全学のものなのか、附属図書館のみに限った数字なのか。
また、その十数名に、「S司書」に該当し得る姓を持つ者が、ゐるかゐないか。

仮に昭和十七年当時「本郷の大學圖書館」の「司書をしている知人のS氏」に該当し得るのが鈴木繁次司書官だけだったとするなら、徳永は、三谷幸吉に続いて、鈴木司書官からも、“遺言のような形”で印刷史研究の燃料を注入されたことになる!
といふドラマが隠されてゐたりするかもしれないと思ふと、矢部貞治日記の通読も全く苦にならないし、百年史を借り出して家に持ち帰るのも、軽い軽い。
矢部日記の余りの面白さに、ついつい井上義和『日本主義と東京大学:昭和期学生思想運動の系譜』(asin:4760133348)も併読してしまったんだども、そんなことやってる場合ぢゃないよ、己。

気を取り直し、百年史が参照した、紀元二千六百年奉祝記念の『東京帝国大学学術大観 総説・文学部』「総説・文学部」(昭和十五年)ば眺めてみた。
附属図書館の項の口絵には、徳永が入る二年ほど前と思はれる書庫の写真も載ってゐて、一三三頁には、かうある。

現在(昭和十五年末)の図書館の構成は、館長の下に
司書官 専任二名、兼任二名
司書 十五名
嘱託 十八名
雇員 十五名
写字生 二十六名
出納手 十七名
書記 三名
外に小使、火夫若干名、計百名前後で、之を管理部、書目部、運用部の三部に分け、その三分の一に達する書目部は図書館の中枢とも云ふべく、大部分本大学及び他の大学出身者を以て宛ててゐる。

司書官の「兼任二名」といふのは、附属図書館と学部図書館の兼任といふ意味か。人数は記されてゐても、人名が判らない。

とか何とか鈴木司書官の周りをウロウロしてゐたら、また「神保町系オタオタ日記」の記述が目に止まる。
http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20071226/

山田と同時期の司書官は、鈴木繁次昭和7年2月20日〜18年1月19日(4月6日参照)、河合博昭和10年12月28日〜25年3月31日。職員は、古野清人昭和3年10月〜4年4月、立花国三郎大正13年7月〜昭和7年1月、関敬吾大正13年6月〜昭和18年7月、小山栄三大正14年4月〜昭和3年10月、石津照璽昭和2年12月〜3年10月、渋川驍(本名・山崎武雄)昭和5年4月〜14[ママ]年6月(5月11日参照)など。

えっ、関敬吾って、民話の関敬吾ですか?
上記司書の関敬吾が民話の関敬吾と同一人物かどうかは、ぐろりあ文庫の『昔話』(ぐろりあ・そさえて、1941)など見れば判るんだらうか。或は、『関敬吾著作集』のどこかに、Wikipedia以上の経歴資料が?
また渋川驍の在籍期間が事実としては昭和17年頃まで続いたのなら、徳永直の「知人のS氏」といふ条件に合致する可能性が最も高いと感じられる。
参照先として示されてゐる「5月11日」の記事によると、『高見順日記』第3巻にかうあるのだといふ。

昭和20年1月23日 田宮君(原註=田宮虎彦)来る。渋川君(原註=渋川驍、当時東京大学図書館勤務)来る。渋川君は家族を静岡に疎開させてひとりで大学図書館にいる。朝昼は学校の食堂で食い、夜は自炊とか。顔色がはなはだ悪い。そういえば田宮君もいわゆる疎開やもめ、同情にたえない。

そこまで「渋川君」が継続して勤務してゐたなら、徳永の「知人のS氏」は「渋川君」で決まりなんぢゃ?
20071226の記事に参考資料として掲げられてゐる『図書館再建50年 1928-1978』、できれば次の日曜にでも、県立図書館で借覧さんなねと心覚え。ついでに渋川驍『書庫のキャレル』(asin:4795218870)も。