日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

昭和30年頃の少年漫画誌アンチゴチ化について

誠文堂新光社『アイデア』誌に連載され後に『組版タイポグラフィの廻廊』(asin:4834400980)に収録された、府川充男さんと小宮山博史さん、日下潤一さんの鼎談「仮名と書体を見る眼」の中で、進行役(たぶん編集部の中の人)からマンガのアンチゴチについて話を振られた府川さんが、かうした話をされてゐた(『タイポグラフィの廻廊』154-156頁)。

漫画の吹出しの今のスタイルは、『少年マガジン』と『少年サンデー』を大日本印刷が印刷していたのが大きな要因になって定着したんだと思いますね。ゴシック+アンチックはたぶん大日本のハウス・スタイルだったんですよ。漫画の吹き出しのネームは、昔は色んな種類があって、和文タイプの清刷をそのまま切って貼ったりしているものが多かった。吹き出し全部が教科書体で組まれていた漫画もあったし、多様だったんです。写植は意外と少なかった。それが漫画週刊誌が登場してくると、大日本印刷がそれらを印刷していたためにゴシック+アンチックが一挙に増えて、それがいつのまにか当たり前のようになったという、それだけの理由だと思うんですよ。漫画週刊誌を凸版印刷が印刷していたら、今のようにはなっていなかったかもしれない。これは、規範が自然発生的に生れた面白い例だとは思います。

『アイデア』334号の「祖父江慎+コズフィッシュ 漫画×デザイン放談」でも進行役(たぶん同じ中の人)がアンチゴチについて話を振って、上記府川説を披露したところ、祖父江さんは大正期の絵本との関係を示しつつ「吹き出しタイムカプセル説」を打ち出されてゐる。
タイムカプセル説については、自称マンガ活字印刷文化史研究者(笑)の己が2006年5月に記したメモ「アンチゴチがマンガさ使はれはじめる頃のことば調べてみっぺ」と大筋で合致し、細かい点では色々言ひたいことがあるんだども、ここでは突っ込まない。
本日の問題は、座を盛り上げるリップサービスだったらうと思はれる上記府川説。
敗戦後、恐らくは手間(予算)の都合ですべて描き文字になった吹き出しが昭和20年代のうちに再び活字化され*1、やがて掲載マンガ全体がアンチゴチ基本になっていく、そのアンチゴチ化のタイミングは、昭和34年創刊のマガジン・サンデーが牽引役ではない。
まだ、国会図書館の『ぼくら』(講談社共同印刷、昭和31〜33年アンチゴチ基本)、『冒険王』(秋田書店+二葉、昭和32〜33年アンチゴチ基本)、『少年画報』(少年画報社+三晃印刷・文京印刷、昭和32年アンチゴチ基本)、『おもしろブック』(集英社共同印刷、昭和30〜33年明朝基本でカラー頁のみアンチゴチ)、『少年』(光文社+共同印刷、昭和30・31年明朝基本で32年からアンチゴチ基本)、日本近代文学館の『幼年クラブ』(講談社凸版印刷昭和32年明朝基本でカラー頁のみアンチゴチ、33年にはモノクロ頁にもアンチゴチあり)、『少年クラブ』(講談社大日本印刷、昭和30〜33年明朝、ゴチ、アンチゴチなど色々)などしか眺め得てゐないので、現時点では決定的な結論としては言へねぇんだども。
この程度の観察からでも、少なくとも、マガジン・サンデーがアンチゴチ基本で始まったのは、単に当時の月刊少年誌の大勢に随ったに過ぎないことが読み取れるし、大日本印刷のハウスルールでも無い模様――と言ってよいだらう。
『少年』に見られる「アンチゴチ化」は、マンガ雑誌が昭和30年頃にA5からB5へと大型化していくことや、付録マンガの数量を競ひあふことなどが生じたタイミングと連動した動きではなからうか*2とか、時代劇ブームの中で絵物語くさい明朝基本ぢゃなくマンガっぽさを求めてアンチゴチを選んでたりして*3等と様々な要因が想像されるが、各紙の創刊時からの流れ(または数年だけでも遡った動き)を追ってみないと決定的なことは言へない。
さしあたり、これらを主な少年漫画誌と見て調査範囲を限定するか、本間正夫『少年マンガ大戦争』(asin:4883880524)53頁に掲げられた昭和29年当時の少年画報のライバル誌、講談社『少年クラブ』、光文社『少年』、芳文社『野球少年』、学童社『漫画少年』、秋田書店『冒険王』、集英社『おもしろブック』、秋田書店『漫画王』、芳文社『痛快ブック』の全てを見るか、はたまた、昭和30年の悪書追放運動に対応して結成された「日本児童雑誌連絡会」に参加したメンバーを一通りフォローすべきか(『少年マンガ大戦争』74頁によると、9社28誌が参加し、上記ライバル誌の他小学館学年誌なども含まれる)、色々と思ひ悩む。
この調査範囲の件は、実際に調査可能な資料の有無に規定される。
――と、平成21年度中に閉館予定の大阪国際児童文学館が実際に利用不可能となってしまふ前に接触しておきたい資料群に関する覚書。

*1:例えば『幼年クラブ』の場合、26年1月号のマンガは全て描き文字で、27年1月号は「ドライくん」のみ写植で他は描き文字、28年7月号では一部に描き文字があるものの他は明朝活字。

*2:雑誌の大型化のタイミングについては、本間正幸監修『少年画報大全』(asin:4785921013)巻末の「少年誌比較年表)に掲げられた、少年画報社『少年画報』、光文社『少年』、講談社『少年クラブ』、学童社『漫画少年』の歩みを見ても、『少年』が昭和29年1月号からB5化、『少年クラブ』が30年6月号からB5化となってゐる(『漫画少年』は30年に休刊)。

*3:昭和33年の『少年クラブ』では“時代活劇絵物語”の黒部渓三・石井治「雪太郎月光剣」が明朝で“痛快時代まんが”の橋本武司「星形流之助」がアンチゴチ