日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

日本プロレタリア文学集に見る「S司書」渋川驍の略歴

新日本出版社の『日本プロレタリア文学集』14巻から20巻、《「戦旗」「ナップ」作家集[1]-[7]》ば借覧。
文学集19巻=作家集6巻に渋川驍が収録されてゐて――そのこと自体が既に己には驚きだったんだども――、少なくとも《「戦旗」「ナップ」作家集[1]-[7]》のすべての解説を書いてゐる佐藤静夫による、こんな略歴紹介があった。

渋川驍(一九〇五〜 )は本名山崎武雄、福岡県嘉穂郡に炭鉱技師の長男として生れた。旧制の佐賀高校を経て東大倫理科卒業。
東大在学中の一九二七年十月、阿部六郎、芳賀檀らと同人誌『文芸精進』を創刊し、同誌にはじめて町田純一のペンネームで『地底を落ちるトロッコ』を発表した。翌一九二八年七月、この『文芸精進』を含む東大内の七つの同人誌(『辻馬車』、『擲弾兵』、『創造』、『青空』、『鍛冶場』、『文芸精進』、『文芸交錯』)が大同団結して『大学左派』を創刊し、その同人の一人となった。この『大学左派』は池田寿夫、武田麟太郎高見順藤沢桓夫長沖一秋田実(林熊王)、新田潤、渋川驍(町田純一)、小野勇、木村利美、神崎清(市場矢三郎)らが中心となった同人四十名を数える雑誌で、高見順によれば「結果は、各雑誌中の左翼的な同人の集合といふ形になつた」(「『故旧忘れ得べき』の頃」)という。

さうか、高見君と渋川君のあれこれについては、『高見順日記』の次に高見順『悪女礼賛』ば読まねばなんねがったのか。
http://www.sogensha.co.jp/page03/a_rensai/kosho/kosho53b.html
佐藤静夫による渋川驍の略歴紹介は続く。

この『大学左派』の創刊された一九二八年という年は、蔵原惟人の提唱による日本左翼文芸家総連合の結成(三月十三日)、および「三・一五」の弾圧(三月十五日)、その直後のナップの創立(三月二十五日)という激動の年であり、『大学左派』も右の高見順の言葉にあるように、明確にナップを支持する革命的活気を反映した同人誌であった。そして若き渋川驍のこれへの参加は、端的に彼の学生時代の思想と文学の内実を語るものといえた。
ついで彼は『大学左派』を改題した同人誌『十月』を、高見順長沖一、木村利美らと創刊し、また同時に左翼的文芸同人誌『時代文化』を高見順、丸山義二、島上千一、柴田賢一らと創刊(一九二九年)した。
一九三〇年、大学を卒業して直ちに東大図書館に勤め、この年七月、さきの『十月』と『時代文化』とを統合した第一次『集団』を創刊した(この第一次『集団』は一九三一年十月号で廃刊し、のち中村光夫、菊盛英夫らが第二次『集団』を興し[一九三二年一月]、これに高見順那珂孝平、渋川驍(町田純一)が寄稿した)。この第一次『集団』の主な執筆者は、秋田実(林熊王)、高見順、荒木巍(下村恭介)、丸山義二、那珂孝平石光葆(皆木駿三)、小野勇、水町三郎、稲葉信之、河崎長、清水真澄、的場透、渋川驍(町田純一)、安田義一、永崎貢(中野大次郎)などであった。なおこの創刊号の「編集後記」には「次号には、武田麟太郎を始めとして各同人がそれぞれ活躍することになつてゐる」、とあるが、武田麟太郎はこの雑誌についに執筆していなかった。
渋川驍によれば、これらの同人のほとんど多くのものは作家同盟員でもあったというし、また石光葆によれば、この第一次『集団』は、全同人はナップに参加することで廃刊した、とされている。さらに、永崎貢(中野大次郎)遺稿集の「略譜」のなかにも、一九三一年の項に「七月五日『集団』同人『作家同盟』に加盟」という個所がみられる。あるいはなお付け加えれば、第二次『集団』の第一号の「編集後記」冒頭には次のようにある。
「『集団』は過去に於て長い歴史をもつてゐる。昨年の十月号を一期として多くの同人を作家同盟に送つた後をうけてゐるが、一九三二年甦生『集団』は、主として帝大生を中心とした文学サークルの間でもたれる同人雑誌として新しき前進を続けるものである。」
要するに、これらによれば、いずれにしろ渋川驍(町田純一)も一九三〇年〜三一年には、プロレタリア作家同盟に加盟していたと考えてよいであろう。
一九三三年四月、『明日』に寄稿した『母』からペンネームを町田純一から渋川驍に改めた。そしてこの年九月、同人誌『日暦』を荒木巍、高見順、新田潤、大谷藤子、石光葆白川渥、甲田正夫、古我菊治の九人で創刊し、その第四号、五号に『龍源寺』を連載して広津和郎に注目された。

何といふか、「徳永直の隣人」の間宮茂輔「最も関係が長かった」橋本英吉らを経由してゐるうちに、いつの間にか「徳永直の知人のS司書」だった可能性がある渋川驍に戻ってきてゐると気づいた己。
さうか、渋川驍も作家同盟の時期に徳永とつながり得たのか。
……
実は、S司書だった可能性がある関敬吾と徳永をつなぐ補助線としてのナップの橋浦泰雄と徳永直とのつながりについて書かれた記事が『文化評論』1973年3月号にあったことに気づいて驚いてゐる己なんだども、その話は後日。