日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

山田珠樹・渋川驍と同時期の司書官“花城”小野源蔵

かかりつけの歯医者が勤労感謝の日を休日診療日に設定してくれていたので、治療に出かけた。宮部みゆき責任編集の『松本清張傑作短編コレクション 上』(asin:4167106949)を持参し、受付での待ち時間に、『或る『小倉日記』伝』、麻酔の待ち時間に『削除の復元』を読む。
己もまた、『或る『小倉日記』伝』の田上耕作同様、ある種の心の支えであるのと同時に、傍目にはとても無価値な、あるひは極めて低価値な行為だらうといふ気持ちをも抱えながら、しかし徳永直『光をかかぐる人々』に憑かれた状態を自分自身半ばあきれつつも楽しんで没入してゐる。
治療が予想より早い時間に終わったので、前日までは翌週末まで待つつもりだった渋川驍『書庫のキャレル』(asin:4795218870)を、市民図書館で借り出してみた。
冒頭の随筆「図書館の窓から」(原題「本とさまざまの人々――図書館の窓から――」、愛媛新聞、1964年10月14日)に、渋川と同時期の東大図書館司書・司書官のことが、記されてゐる。

はじめに接した館長姉崎潮風(正治)氏は、明治文学界で笹川臨風、登張竹風と並んで「三風」の一人といわれた評論家だった。また司書官山田珠樹氏は森鴎外の女婿だった人で、スタンダールの研究家だった。そのつぎの司書官水野亮氏はバルザックの翻訳家として知られている。その下にいた職員には、明治文学の研究家土井重義、岡野他家夫、「ドン・キホーテ」の翻訳家会田由、名演出家ラインハルトの門に学んだ演劇研究家菅原太郎、トーマス・マンの翻訳で知られる佐藤晃一、文芸評論家小松伸六の諸氏がいた。わずかな期間だが、作家の吉行淳之介氏も働いていたことがある。

また、この項の注釈として、次の補足が記されてゐる。

このころの東大図書館にはほかに、当時すでに民話文学の第一人者であり、後に日本民俗学界を背負って立つ関敬吾ハンガリー語徳永康元、「忠臣蔵」を中心とする近世文学が専門の増田七郎(古川緑波実弟)、サンタヤナの『最後の清教徒』を訳した鵜飼長寿、アルランの『秩序』を訳した佐藤文樹、『日本近世支那俗語文学史』という篤学の書を出した石崎又造などの人が在籍したか、在任中だった。また新劇女優の荒木道子なども在籍していた。

なるほど、関敬吾が民話の関敬吾かどうかといふ20091122の疑問は、かうして解消された。
かうなると、『図書館再建50年 1928-1978』も眺めてみずにはゐられない。これまた、借り出してきてしまふ。
嬉しいやら悲しいやら、そこには、「50年間の推移」の資料「6」として、昭和3年から昭和53年の間の「旧職員」一覧が、戦前期についても、司書、嘱託、雇員、写字生、出納手、書記など、何の区別もなく、50年間約700名分、氏名の50音順に並べられてゐた。その中には、確かに荒木道子の名はあるが、吉行淳之介の名は記されてゐない。
さすがに館長と司書官、事務部長、課長だけは、別枠(資料「4」)に明記されてをり、その中に、「神保町系オタオタ日記」の記事「司書官山田珠樹」にも、『書庫のキャレル』にも拾はれてゐない東北人の名があった。
小野源蔵司書官で、在籍期間は昭和6年12月12日から昭和15年2月19日となってゐる。
小野花城こと小野源蔵の生涯ついては、秋田県五城目町のサイトに詳述されてゐる。
http://www.cs.town.gojome.akita.jp/kura_senpai01/main_genzo.htm
また、東大司書官時代のエピソードが、学習院大学図書館報『来ぶらり』65号(2000年4月1日)に、記されてゐる。
http://www.gakushuin.ac.jp/univ/glim/common/raiburari/pdf/burari065.pdf
更にまた、『図書館再建50年 1928-1978』によると寺澤智了司書官というのが、ごく僅かな期間、山田珠樹と同時に勤めてゐるらしく見えるんだども、この寺澤智了が、『ず・ぼん8[図書館の歴史を振り返る] 図書館界が「紀元2600年」にかけた夢』に記されてゐる、昭和十一年当時の大垣市図書館長寺澤智了と同一人物であるかどうかは、判らない。
昭和十七年当時の「S司書」候補を『図書館再建50年 1928-1978』で拾い出してみると、ざっと13名ほどである。はてさて。