日本語練習虫

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中野重治『敗戦前日記』前川正男『中島飛行機物語』

中野重治『敗戦前日記』(asin:4120022714)、昭和20年のノートには、東京圏の空襲(空爆)がずいぶんたくさん記されてゐる。とはいへ3月10日のいはゆる「東京大空襲」以外に100回以上の空爆があったといふから、そのうちのごく一部が記録されてゐる、と云ふべきか。
さうした米軍空爆下の20年6月、入院中の徳永の妻が「戦死」したこと(徳永直『妻よねむれ』)も記されてゐる。中野本人と夫人が、死の直前に相次いで徳永の妻を見舞ってゐる。
中野と徳永が住んだ世田谷の空襲と環八つながりといふか外環つながりといふか、前川正男『中島飛行機物語』(asin:4769807570)ば借覧。
己は学校を出て勤め始めたばかりの頃東横線都立大学駅から乗り入れの日比谷線で通勤してゐたんだども、前川氏も陸軍造兵廠時代は都立大学駅から赤羽線十条駅に通ってゐたらしい。当時召集されてゐなければ中央線の西荻窪で降りて荻窪工場へ通ふところだったとか。
軍需工場をどのように潰すかのケーススタディとして、中島飛行機の武蔵製作所は、昭和19年2月14日の損害軽微な「空爆」以来、11月24日、12月3日、12月27日と多くの死傷者を出す爆撃を受けた後、20年2月17日の徹底的な爆撃で壊滅状態になり、三菱の名古屋工場はその戦果を応用し一回の空爆で機能停止させられたといふ。
武蔵製作所は終戦直前の8月8日にも最期の空爆を受けたさうだ。
ちなみに、Wikipedia中島飛行機の項には昭和13年に武蔵製作所が完成したとあるんだども、『中島飛行機物語』によると、昭和13年に完成した武蔵野製作所と、近隣に昭和16年に完成した多摩製作所、これが昭和18年に合併して武蔵製作所になったのだといふ。
生れも現住所も東夷の己なんだども、わずかな期間目黒区民だった当時、同期の一人が中央線武蔵境駅で、一期上の先輩に三鷹駅もゐたので、このへんの地理は実は身近な場所だ。
前川正男『中島飛行機物語』には、「音が聞こえない爆弾が恐しい」(飛来する音よりも先に着弾する)といふ空襲話の他、高精度な工作機械の国産化に取り組む苦労話や過給器付エンジンの開発に関する話など興味深い点は数多くあったんだども、飛翔体に関連する話題が見当たらなかったのが残念。リストアップした本ば早く読め、己。