日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

徳永直『「印刷文化」について』について

旧正月に始めた徳永直『光をかかぐる人々』の青空文庫テキスト化作業は、河出書房初版(昭和18年発行)に基づく入力作業を終るところまで辿りついた。近々、京都府立図書館所蔵の第二版(昭和19年発行)に添えられてゐる正誤表のデータを反映させて、一段落とするつもり。
さて、今まで「はてな」には記して来ねがったんだども、己はこの2月中旬に、徳永直『光をかかぐる人々』にはこれまで「印刷史家」が気づいてゐなかった続編が発表されてゐたといふことを、浦西和彦編『人物書誌大系 徳永直』(asin:4816901302)の書誌情報によって知った。
河出版の末尾に「じつは最初のうち一卷のつもりが、半分ゆかないうちに一册になつてしまつたので、豫期せぬ一册がこのあとへ續かねばならぬ次第となつた。」と徳永が記してゐる続編が、昭和24年、日本電報通信社世界文化社『世界文化』に6回にわたって連載されてゐたのだ。己は、東北大学付属図書館、日本近代文学館国会図書館憲政資料室(プランゲ文庫資料)でその連載内容に接し活字印刷文化史研究者の端くれとして驚嘆せずには居られなかった。
徳永が続編に記した《いまや、私の頭には、P・P・トムスや、ウオータア・ローリイをのぞいても、ダイア――コール――ギヤンブル――昌造――富二と、不連續線が、できあがつてしまつている。時間的には、一八一五年、文化十二年から、一八七一年、明治四年にいたる、空間的には、ペナンから、東京にいたる、日本近代活字のコースである。》といふ内容は、府川充男氏、小宮山博史氏、鈴木広光氏らの手によってごく近年になって明らかにされるまで*1、「印刷史家」からは全く顧られてゐない流れであったと、己は思ひ込んでゐた。
だがしかし、日本語活字の歴史を考察する者の中で、三十年は早く、徳永が、徳永ひとりが、「ギャンブル以前」に焦点を当ててゐた!!!
かうした『光をかかぐる人々』周辺情報のうち、本日は、『人物書誌大系』に拾はれてをらず、またそれを補ふ浦西和彦「拙編『徳永 直<人物書誌大系I>』補遺」(熊本近代文学研究会編『方位』第五号)にも拾はれなかった、同時代人の『光をかかぐる人々』評と徳永の文章について、記しておく。
『光をかかぐる人々』評は、『印刷雑誌』26巻11号(昭和18年12月号)に「N」の署名で載ったもので、『「印刷雑誌」とその時代』(asin:4870851911)にも拾はれてゐない。その内容については、日を改めて記す。
徳永の文章といふのは、『「印刷雑誌」とその時代』にも収録された、『「印刷文化」について』と題して昭和19年の『印刷雑誌』27巻1号・2号に掲載された記事である。
一部を抜粋してみる。

さて印刷科學について國民一般に關心をもたせ概念を與へると云つても、生活的には印刷業と直接關係ない人間にとつては、單に技術上の課程を叙述しただけでは、何の感情もおこさせることが出來ない。もともと「技術」なるものはその人間が直接必要に當面した場合にのみ獲得さるるものであつて、今日のやうに個人的には名刺、葬祭用の端書印刷から、一般的には新聞、書籍に至るまで、他人の技術によつて容易に必要が滿たされる分業化の時代にあつては尚さらさうであらう。ここにわが國の歴史が示すが如く、機械化された印刷術が明治維新前後のわづかな期間に、自動車の如く、電車の如くある程度既成品として流れこんだ傾向をもつてゐる場合本木昌造とか、木村嘉平とかその他多數の日本活字創成のために辛苦した日本人があつたとしても、なほ近代印刷術に對する身に泌みた歴史的認識といふか、關心といふか、そんなものは比較的少いにちがひない。

たとへば一個の鉛活字の工程および技術はかくのごとくであると叙述するよりも、昔はこうやつて作つたが、現在はかくのごとく作られると叙述されればより歴史的である點で讀者の一般感情にふれやすい。さらにこの活字はどういふ人間によつて發明され、その人間はこのやうな辛苦を經て成し遂げたと叙述されれば、その發明者の行動から教訓的なもの、哲學的なものさへ附加へて讀者の生活感情により廣く迫るだらう。さらにまたこの活字は世界のどの國からどの國へ傳はり、どの國との戰爭の結果、そこの國語まで變化させるに至つたといふ叙述になれば、もはや一つの文化史、交通史ともなり、さらにさらにまた、たとへばドイツ人ケーニツヒのシリンダー式印刷機の發明が、何故彼の生國でも、ヨーロツパ本土でも産ぶ声をあげることが出來ず、ロンドンで最初の試運轉を行はなければならなかつたか。またはヨーロツパで誕生した鉛活字が、同じ成分の鉛活字にちがひないながら、何故アメリカで、第一期とはその性質のちがつたものとして、つまり第二期の花を開かなければならなかつただらうかといふやうなところまで叙述されれば、政治、經濟の領域にまで入つてきて、もはや讀者大衆の生活感情の全領域にはいつてゆくだらう。この場合活字は單なる金屬の化合物であるだけではなくて、人間生活のあらゆる面が沁みこんでゐるからである。

近代印刷術が再渡來した幕末から明治にかけての時期の活字の歴史は、長崎からこつち側は明瞭のやうであるけれど、長崎からむかふ、波を越えては比較的に云つても明瞭のやうではない。私の知り得た範圍はわづかだから口はばつたい[#「口はばつたい」に傍点]ことは云へないけれど、上海から渡來した漢字の鉛活字は上海で創成されたものではなかつた。それは支那大陸の廣東から、マレー半島昭南島へ溯《さかの》ぼり、さらにペナン島へも起原してゐるやうであるが、そういふボデイは同じ鉛ながらアルハベツトから漢字へ變化した、つまり活字を通じて西洋と東洋が媒介された起原については、過去に出版された日本の印刷史書では殆んど見當らぬ。もちろん私の知識の範圍がせまいからかも知れぬが、少くとも比較にならぬほどわづかだらうといふことは云へると思ふし、その點ではやや鎖國的ではないかとさへ考へる。

私らはかつて、日本近代印刷術の先輩たち、本木昌造が、大鳥圭介が、どういふ動機から日本活字を創造しやうと努力したかまたは明治初期の佐久間貞一が、大橋佐平がどんな精神と動機から印刷工場を經營しはじめたか、それを思ひ出してみるだけでも、おのづから、「印協」出來以前までの、日本の印刷業界が陷つてゐた偏向におのづから氣づきうることと私は考へる。

かうして眺めると、この『「印刷文化」について』と題した小文が、「豫期せぬ一册」を含む『光をかかぐる人々』全篇の解題にもなってゐることに気づく。
日本近代文学館に遺された『光をかかぐる人々』創作ノート・メモには佐久間貞一や大橋左平に関する項目もあったから、上記引用テキストや創作ノート・メモから判断して、惜しくも途絶した『世界文化』連載以後の部分は築地活版を起した平野富二、秀英舎の佐久間貞一、博文館(のち共同印刷)の大橋左平らが“かかげた光”についての話を経て著者徳永の現在地に戻ってくるやうなものが構想されてゐたのだらう――といった議論を浦西和彦先生や木村一信先生と交はすのに良い材料だと思はれるので、今回、徳永直『「印刷文化」について』を「青空」+「うわづら」の「あをぞラボ方式」で電子化してみた

*1:西野嘉章編『歴史の文字―記載・活字・活版』(asin:4130202030)や印刷史研究会編『本と活字の歴史事典』(asin:4760118918)はたまた小宮山博史『日本語活字ものがたり』(asin:4416609027)など