日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

ミヌヨノトモヨ

『アイデア』310号を締める「座談会 タイポグラフィの七燈」にて、『ユリイカ』編集長の郡淳一郎さん曰く:

書物という物質にして何百部だか何千部だかバラまいておけば、いつかどこかで見ぬ世の友に巡り会えるかもしれない。それはブログで日記を書いたり、携帯でメールを送るのとは違った質のディスコミュニケーションを前提としたコミュニケーションであって、書物だからこそ、死んだ人とも繋がれるし、未来に託せるわけです。

これはもちろん、『徒然草』第13段:

ひとり灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなうなぐさむわざなる。
文は、文選のあはれなる巻々、白氏の文集、老子のことば、南華の篇。この国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなる事多かり。

――が意識されてゐるに違ひないのだけれど、兼好法師が読者側の視点で見ぬ世の友を思ふのに対して、郡さんの発言が作り手側からの視点であるところが、ちょっと嬉しかった。
先日教育テレビの「NHK映像ファイル あの人に会いたい」を眺めてゐて、二十代の自分が寺山修司の絶筆といふ「墓場まで何マイル?」に出てくるコトバ:

私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけは、はっきりしている。だが、だからと言って墓は建てて欲しくない。私の墓は、私の言葉であれば、充分。

――に遠くから支配されてゐたことを微かに思ひ出し、そして忘れたところだったので、同年代の送り手の方がちゃんと“見ぬ世の友”を視界に捉へてゐらしたと知って、嬉しかったのだ。