日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

ヘボンとガンブルの仮名活字

ヘボン在日書簡全集』(asin:9784764273016)を眺めてゐて、こんな記述に目が釘付け。
まずは、元治元(1864)年二月一〇日付、横浜発「親愛なる友に」で始まる手紙の末尾(同書165頁)。

わたしどもは、皆良い健康状態でおります。わたしは、他のことをほとんど止めてしまうほどに、辞書の編纂に没頭しております。もしできることなら、来秋、辞書の印刷を始めたいと思っております。そのことでわたしはガンブル氏と文通をしております。そして上海に行き、印刷が終わるまで滞在しなければならないでしょう。

そして、慶応二(1866)年一二月七日付、上海発ラウリー博士宛の前半(同書199-200頁)。

ご承知のように、わたしは上海に来ております。理由は辞書の印刷のためです。一〇月一八日に横浜を出発しました。ここに来てから赤痢と間歇熱にやられ、二回も病床につきました。そうひどくなかったので長くは床についておりませんでした。でもやせて力が抜けました。全く上海が恐ろしくなりました。上海はマラリアの本場です。しかし仕事を完成するまでここに留まりますが、それがすんだら、喜んで日本に帰って行きます。印刷の仕事はゆっくりしております。ガンブル氏の印刷技師としての腕前と天分とがなかったら、全くできなかったでしょう。これまでのことろではあらゆる障害を超えることができたのです。彼が最も美しい日本字の活字を鋼製の母型に作り、一揃いの日本字の活字を鋳固めたのです。英語の大文字、アクセントのついている母音や、イタリックなどがないし、また上海でそれらを得ることができないので、ガンブル氏自ら母型を作って、必要なだけを鋳固めました。これだけお話ししたら、印刷がどれほど難しいものかがお分かりになるでしょう。このために一ヵ月以上を費やしたのです。わたしどもは着々と仕事を進めております。わずか活字を並べるだけに誤認の植字工を使って、二日に八頁の印刷を仕上げたいと思っております。やっと四〇頁終わり、A、BとCの一部ができたわけです。

更に慶応三年一月二五日付、上海発ラウリー博士宛の末尾(同書202頁)。

ガンブル氏はわたしが三年ほど前に版木にしておいた小冊子〔訳注―『真理易知』のこと〕を印刷しております。彼はわたしが日本で作ってもって来ている版木から、かなり立派な活字を作りました。ガンブル氏は母型を作ったので、わたしどもの欲しいものは何でも日本語で印刷することができるようになりました。聖書はみな翻訳されなければなりませんし、キリスト教の書物も出版の準備をしなければなりません。聖書協会で出版すべき聖書の翻訳は各派共同の事業でなければなりません。日本にいるあらゆる宣教師でないにしても、それらの推薦した委員らに託さなければなりません。

どんなサイズかは分からないが――おそらくは三号〜四号程度だと思はれるんだども――、江戸後期の整版本時代に「四角い印刷文字」の姿を獲得しつつあった「かなもじ」が、本木+池原による「和様仮名」以前に、ヘボン+ガンブルによって「四角の中に押し込め」られてたんぢゃないかって話が記されてゐる。驚きだ。
米国に出向いてガンブルの資料を調査してこられた後藤先生たちは、このあたりの状況を探して来られただらうか。
明治学院には『和英語林集成』の原稿も遺されてゐるといふけれど、ガンブルとのやりとりの記録や、最初期の『真理易知』などは、無いのだらうか。
ちなみに、和英語林集成の「日本字」印刷に関係するあたりに登場する資格があるように思はれる(http://twilog.org/uakira2/date-110614)岸田吟香の名は、書簡全集のどこにも見あたらない。