渡辺順三『烈風の中を』(1971、東邦出版社)の中に、徳永直の第一印象のことが、かう記されてゐる。
私が徳永君とはじめて会ったのは、たしか昭和六年の夏であったと思う。私が池袋から世田谷の豪徳寺裏に移ったのがその年の四月で、それから少しおくれて徳永君が近くの経堂に移ってきた。そのことを新聞の消息か何かで見た私は、ある夜にその家を訪ねたのである。
徳永君にはじめて会ったときの印象は、いかにも労働者――というよりむかしの型の職人、活版職工であった。話しぶりも、身のこなしも職人であった。そういうところが私にも気安く話せる相手であった。私も大正十二年から昭和五年末まで、池袋で小さな印刷屋をやっていたので、印刷職人にはなじみがあった。徳永君は自分の家でも、よく片ひざ立てて飯を食っているのを見かけたが、それは印刷工場で、植字台の下や、活字ケースの蔭で昼の弁当を食っている姿であった。
さうして近所の文筆家同士としてつきあひを深めた渡辺順三と徳永直は、共著の『弁証法読本』といふ本を出すことになる。『烈風の中を』に、かうある。
昭和七年頃の思い出だが、徳永直と私と二人で弁証法の学習をはじめた。前にも書いたが、私は昭和のはじめごろ、ブハーリンの『史的唯物論』を読んで非常に深い感銘をうけ、ものの見方や考え方の上に大きな影響を受けた。その後弁証法の本がいろいろ出版されて、文学の上にも「弁証法的創作方法」などということがいわれ、『文学評論』誌上その他でも議論がさかんになった。
そこでわれわれも弁証法の勉強をやろうということになって、近くに住んでいた広島定吉にチューターになってもらってはじめた。テキストはたしかアイゼンベルグの『弁証法的唯物論教程』であったと思う。毎週一回位、広島の家や、徳永の家や、私の家でやった。そしてこのときの学習のノートをもとにして、弁証法のわかりやすい入門書を書いたらどうだとナウカ社の大竹さんにすすめれ、「専門の哲学者が書くより、小説家と歌人の感覚で書いてみて下さい。かえって面白いかもしれない」などとおだてられて、徳永君も私も「それではやってみようか」という気になり、やがて昭和八年の秋『唯物弁証法読本』という本になってナウカ社から出版されたのだが、これが予想外によく売れて、私たち自身がびっくりしたほどである。いまでも地方に行って、古くからの活動家などに会うと、「あれを読んではじめて共産主義がわかりました」とか「私が共産党に入ったきっかけはあの本のおかげです」などという話をよくきかされる。あのこと青年たちの学習会のテキストによく使われていたらしい。
ちなみに、熊本近代文学研究会『方位』第五号「小特集 徳永直」(1982、三章文庫)所収の浦西和彦「拙編『徳永直〈人物書誌大系 I〉』捕遺」には、上記入門書の書誌情報について、かう記されてゐる。
拙編「徳永直〈人物書誌大系 I〉』*1を日外アソシエーツから昭和五十七年五月十日に上梓した。この時、二つのことをぜひ実現させたいと思っていた。一つは、徳永直の全著書を確認したいことである。もう一つは、徳永直が大正十四年六月七日に執筆した短編小説「馬」の初出を明らかにしたことであった。
前者の著書については、八十四冊のうち、渡辺順三との共著『唯物弁証法読本』(昭和八年十月四日発行・ナウカ社)が、どうしても手にすることができなかった。この本は、小田切秀雄・福岡井吉編『昭和書籍・雑誌・新聞発禁年表』上巻(昭和四十年六月二十五日発行・明治文献)によると、昭和十八年十月二十四日に発禁処分となっている。
官憲の手によって、徳永直の著書が発禁処分に処せられたのは、全著書八十四冊のうち、この渡辺順三との共著『唯物弁証法読本』ただ一冊だけである。
以上のやうに記された「捕遺」本文の後に「校正付記」として、かう補足されてゐる。
その後、渡辺順三のことを調べている村上悦也が『弁証法読本』を所蔵されていることを知った。『弁証法読本』は、昭和八年十月四日発行で、発行所はナウカ社、定価は一円、頁数は二七〇頁である。書名は『弁証法読本』が正しく、戦後の新興出版社版で『唯物弁証法読本』と変更された。
渡辺順三自伝の『烈風の中を』には、まだ細かいエピソードが幾つも記されてゐるんだども、このあたりでいったん終了。
ちなみに、徳永直『光をかかぐる人々』執筆時の直接的な話題はない。