日本語練習虫

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橋浦泰雄と関敬吾の接点・橋浦と徳永直の接点

そんなわけで(12月1日18日19日)、鶴見太郎橋浦泰雄伝』(asin:4794964307)と、橋浦泰雄『五塵録』(1982、創樹社)ば借覧。
鶴見『橋浦泰雄伝』第二部「橋浦泰雄民俗学」7「『民間伝承』の世界」中に、関敬吾との接点が書かれてゐる。
153-157頁に記された1937年3月の「橋浦泰雄日本画頒布会」に際して、関敬吾柳田国男渋沢敬三ら橋浦にとっての民俗学人脈と共に頒布会の「賛助員」に名を連ねてゐる。
また、181-184頁によると、1944年7月31日に古希を迎える柳田国男の記念事業を行うべく、1943年「六月二六日に橋浦、大藤時彦、倉田一郎、関敬吾、そしてちょうど上京していた蓮仏重寿によって協議会が持たれ、日本民俗学全国大会を東京で行い、できれば、近畿、九州、東北でもそれぞれ地方大会を開催すること、民俗学以外からの寄稿者を含む古希記念論文集を刊行すること、『民間伝承』で記念特集号を刊行することが決定された。」「八月七日、橋浦、関、大藤、倉田の四名が委員となり、第一回委員会が開かれた。」云々とのこと。
柳田国男門下の「木曜会」主要メンバーであったことから来る、「民俗学の橋浦」と「民俗学の関」とのつながりが、こんな具合に示されてゐる。
……
さてその一方、大正十二年、有島武郎の死の前後で筆が措かれてゐる『五塵録』の最後期(279頁)に、かういふ記述があった。

六月に入るとあわただしい日の連続だった。四月に創立総会を開催して発足した出版従業員組合は、急速に発展して全国各所に支部が結成された。鳥取では涌島が鳥取新報社にいたが、おりから編集部員のストがあり、それを機会に涌島は支部の準備会を催した。
東京本部でも市内の各所に印刷工中心の支部や、その準備会ができた。その結果、創立当時は印刷労働者よりも文化人の方が多かったのが、わずか二ヵ月足らずで、文化人よりも労働者の方が数倍もの人数になった。
この出版従組は、前年の七月十五日に創立された日本共産党の指導によるもので(むろん党外のわれわれは、前記第一次の検挙があるまでは党の存在を知らなかった)、当時、総同盟などの右翼、サンジカリズムの極左組織に対して、共産党は初めて産業別労組運動を提唱し、その組織化に着手した一環だった。金属労組などもめざましい発展だった。
このことは必然的に印刷工と文化人とを合一した出版従組の発展的な再組織について考慮せねばならなかったので、たびたびの会合が行なわれ、それに参加しなければならなかった。

大正十一年に上京して博文館印刷所の植字工となった徳永直は、出版従業員組合の創立に伴って、博文館支部の責任者となっている。翌年、合併により博文館印刷所は共同印刷と名を変え、徳永は、後に『太陽のない街』で描くことになる「共同印刷争議」の、労組側の中心人物の一人となる。
ちなみに、『橋浦泰雄伝』中に、かういふ記述もあった(116頁)。

かつて日本プロレタリア文芸聯盟の美術部長を務めていた時に関わった一九二六年三月、共同印刷争議の支援において橋浦は柳瀬正夢、木部正行、村山知義らとともに街頭似顔絵市場に参加し、即興で似顔絵を描いて援助金を争議団に送ったことがあり、すばぬけた速筆で肖像を仕上げることができた。

さらに、『講座・日本社会思想史 4 反動期の社会思想』(1967、芳賀書店)31頁には、かうある。

一九二五年(大正一四年)一二月には、この『文芸戦線』のおもだったメンバーである林房雄佐々木孝丸、山田清三郎らの提唱で日本プロレタリア文芸連盟が結成された。連盟は、(一)無産階級闘争文化の確立、(二)文化戦線に於ける支配階級文化およびその支持者との闘争、を綱領としてかかげ、アナーキストから人道主義者までを含む、はばの広い組織であった。連盟は、当時世間の注目を集めていた共同印刷ストライキに、「トランク劇場」を編成して争議団を激励し、街頭に進出して漫画市場を開き、その売上金をカンパするなど、積極的に協力し、また二六年一〇月の「無産者新聞」一周年紀年宣伝週間のために劇と音楽をもって「無産者の夕」を開き、また小説、漫画などを送って編集に協力した。

ひょっとすると、ナップ以前に出版従業員組合において「文化人橋浦」と「労働者徳永」が出会ってゐたかもしれねぇと思はされる。
橋浦「ナップ初期の頃」(『文化評論』1968年5月号)も眺めてみたんだども、『五塵録』以上の事柄は発見できねがった。残念。