日本語練習虫

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高等小学校読本七の本木昌造伝と三谷幸吉

片塩二朗『活字に憑かれた男たち』「神を創った活字研究者・三谷幸吉」さ、「高等小学校読本 七」(1910)の「わが国の活版印刷術の起源」といふ節(本木昌造礼賛記事)が書き写してあって、それに続けてかう記されてゐる。

この紹介は六ページの、簡にして要をえたものでした。この教科書を三谷はみていたのでしょうか……。もしかすると三谷が印刷界に飛びこんだのも、あるいは「本木昌造神話」をかたり続けたのも、かすかな潜在意識として、この教科書があったためかもしれません。

いやいや、ご自身で記された生年が正しければ三谷幸吉は1886年3月9日に生まれてますから、1910年には24歳ですよ?
小野寺逸也「第一次大戦後の印刷労働運動と三谷幸吉」によると「彼は小学校卒業直後の明治三十年五月に、福井市で印刷見習工となった」さうであり、また同補遺によると「三谷は著書の中で(『直ぐ役に立つ植字能率増進法』昭和十年、印刷改造社刊、一二〇ページ)、明治三十六年に神戸の金子印刷所で差替係長として働いていたと述べている」といふことなので、三谷が印刷界に飛びこんだのは、1910年の「高等小学校読本 七」が原因で無いことは明らか。
かういふ「突っ込みどころ」は、たぶん、“いいかげんなことを書いてる”んぢゃなくて、“読み手のリテラシーを試してみてゐる”んだといふ気がしてきた己。
ちなみに、小野寺論文は1993年3月31日発行の神戸市紀要『神戸の歴史』第23号に掲載されてゐて、片塩読み物は季刊『本とコンピュータ』1998年冬号が初出の筈。
閑話休題
昨日の記事「三谷幸吉が「神を創った活字研究者」となった訳」さ、三谷による「活字角ノ設定及活字種類限定ニ関スル請願」が昭和二年のことだと記した己なんだども、どうもこれは己の勘違いであるらしい。
国立公文書館で見つかる「本館-2A-014-00・纂01785100」は確かに昭和二年六月のものなんだども、これは国会の手続きを経て記録された決定内容を記した文章であるらしい。
帝国議会の記録によると、大正十五年三月二十四日付「第五十一回帝国議会衆議院請願委員会議録」において「活字角ノ設定及活字種類限定ノ件」が第1024号として取り扱はれ、翌日の本会議において「活字角ノ設定及活字種類限定ノ件」は第六九八(特別報告第四三七号)として記されてゐる。三谷自身の請願文書がどんな内容のものだったか、また請願を行った年月日はいつかといったことは現在まだ明らかにできてゐないんだども、ここまでメモしておく。
さて、小野寺論文によると三谷は大正十三年三月に神戸印刷工株式会社を退職し、同年五月に上京したのだといふ。
大日本帝国憲法下での請願の手続きを調べてみなきゃイカンと慌ててゐる己なんだども、上京して間もなく日本語金属活字の根本的な改革案を請願し、「印刷改造社」を設立した三谷幸吉。
ギルド社会主義の夢を見た神戸印刷工株式会社から身を引かざるを得なくなった後に、より個人的な会社として「印刷改造社」といふ名を選んだ三谷の生き方について、季武嘉也『大正社会と改造の潮流』(asin:4642008241)が大きなヒントをくれたやうな気がしてゐるんだども気のせいだらうか。