日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

千々石ミゲルの測量術

この記事をご覧の方にとって、「千々石ミゲル」といふ名から連想されるのは、「友の会のテーマ」*1だらうか、「きりしたん版」*2だらうか。
天正遣欧使節の主席として16世紀後半の欧州の空気を吸い、様々な知識や技術を持ち帰った中に活版印刷術も含まれてゐたわけなんだども、このところ己は、千々石ミゲルの航海当時の経緯度観測技術に関する記述を探し求めてゐる。
ことの起こりは、昨年読んだ高見敞志『近世城下町の設計技法』。

近世城下町の設計技法―視軸と神秘的な三角形の秘密

近世城下町の設計技法―視軸と神秘的な三角形の秘密

いくらでも相似形を設定できちゃうα三角形は眉唾物と思ひつつ、「視軸」のアイディアは悪くないと、読み進めながら興奮した己。土地に縁の深い神仏と「視軸」によって天守を繋げるといふ意図は、実にありさうな話だ。
とはいへ、同書が述べてゐる城について全てカシミール3Dで確認した限りでは、広島城など議論の前提としたケースを除いて直接的に目視可能な「視軸」の例が少ないことに気づく。長浜城にせよ明石城にせよ、山あり谷ありで見えない相手と、一体どうやって「一直線上だ」と測ったんだべか。
この「見通せない視軸」については著者も気がかりだったらしく、狼煙でも使ったんぢゃないかとか測量術は今後の課題だとか書いてある。
同書を一般向けに書き直したといふ近著『城と城下町』(asin:9784765544627)でも、測量技術の問題は棚上げされたままだった。
土木なのか建築なのか測量なのかとあれこれその方面の技術史の著作を――町見術の古典籍なんかも含めて――眺めつつ一年ばかり過ごしてゐた己なんだども。
先日ふと手に取った中村士『江戸の天文学者星空を翔ける』(asin:4774135151)を皮切りに、小川清彦著作集『古天文・暦日の研究』(asin:4774400203)、佐藤賢一『そして数は遙かな海へ…東アジアの数理科学史』(asin:4893849883)、伊達宗行『「数」の日本史』(asin:4532164192)などを読み継いで、海老澤有道『南蛮学統の研究 増補版』(1978、創文社、精興社印刷)さ、ミゲル関連の興味深い記述があるのを知った。
海老澤『南蛮学統の研究 増補版』63-64頁に曰く。

サンデの『日本遣欧使節対話録』によると、その一人ミゲル千々岩(ママ)は遠洋航海者が

主に使っているのは観辰儀astrolabio平面球形図planisphaerio海図carta磁針であって、これらの器械で航海の方法を容易に知り得るのである。観辰儀により太陽の位置からの距離、極poloからの距離を、また赤道sepentrioneからの距離を知るのである。

と説明し、それらの観測器を持帰り日常自室で慰みがてら使用しているとて、

天文学を教授している数学者が全天球を四部に分けていることを知って戴きたい。これらは各々の極から赤道lineam aequinoctijまでを九十の部分に分ち、それらを彼らは度gradusと呼んでいる。従って北極polo arcticoから赤道を経て南極polo antarcticoに至り、南極から再び赤道を経て、もとの北極に至るまでの全球は三百六十度となる……各一度は、……六十分minutaに区分される。同様天の下にある地球の全周をこれら数学者は同数に分ち、正確な観測により地の一度は北極septentrioneから南へ直線的に計って十七レウカleuca半あることを知っている。
結局地球は丸く……その周囲は六千三百レウカある。……このアストロラビヨも天球の緯度を眼前に備えるように手を込めて作ってあり、この真直な棒はその中央の両側に一つの孔があって各々の度数を示すのである。……航海者は正午にこのアストロラビヨを手にし棒の角度を太陽光線に合せ、太陽光線が孔を真直に通るようにする。そしてこの棒即ちメヂヨリニウムmedioliniumの上端の示すところが太陽点からの距離を示す正確な度数である。……これが判ると航海者はこのカルタを手にとって自分のいる地点と赤道からの距離を記入する。このカルタには天球と度数とが見られる通り海岸線とともに記されている。

さう、キーワードは遠洋航海術であり天体観測技術だったわけだ。
さすが世界天文年。リアル書店もリアル図書館も、色々と興味深い書物を提示してくれる。ガリレオが望遠鏡で覗いた木星とイオの食も、自然時計として経度の測定に役立つものらしい。
当時日本にも宣教師らが機械時計を持ち込んでゐたらしく、仮に時計で1秒単位が測れれば北緯35度付近において経度で25m程度の分解能が得られる。数十キロ離れた見えない相手と、その程度の距離の誤差で位置決定ができるのであれば、「見通せない視軸」の問題も、ほぼ解決と言ってよいだらう。「目視軸」「透視軸」なんていふ用語まで考へてた甲斐があったといふもんだ。
海老澤『南蛮学統の研究 増補版』54頁には、こんな記述もあった。

他のパアデレ書簡には余り日本の経緯度に関する報告が見られないのに対して、流石に彼(引用注:ロドリゲス)は、『日本教会史』中に、本州を北緯三二・五度から四二・五度、東経一五五から一六八度(現今のグリニチ基準ではない)、九州は三〇・五度(坊ノ岬)から三四・五度(門司)、東経一五四から一五五・五度。四国を三二・五度から三四・三分ノ二
度。一五五・三分ノ二から一六一度としている。
――中略――
これらは彼の実測ではないようで、四国を除き〇・五度程度の差がある。

あれれれれ、〇・五度程度の差っていふと、概算で11kmくらいの誤差ぢゃないの? 蝦夷から沖縄までの3000km中の11kmならともかく、城下町とか藩とかの単位で11kmの誤差は「視軸」にとって致命的。
実際のところ、天正-慶長期の南蛮技術を用ゐて国家プロジェクト(藩プロジェクト)として経緯度を測った場合、どの程度まで細かく測れたんだらう。
引き続き、ヒューソン『航海術の歴史』(asin:9784303200602)とソベル『経度への挑戦』(asin:4881355058)、飯島幸人『航海技術の歴史物語』(asin:4425431618)も読んでみっぺと心覚え。
なほ、土木なのか建築なのか測量なのかとあれこれ眺めた技術史の記述の中では、金沢城の辰巳用水や長坂用水と紅毛流測量術の関係について述べたものが興味深く思はれた。
http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/9604/1/AN00044444-27-ikemoto.pdf
これもまた、南蛮がらみで覚えておくべと日記さ書いておく。