日本語練習虫

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三谷幸吉が最初に勤めた福井の印刷所を推定する

しつこく再掲するんだども、三谷幸吉『印刷料金の實際』(昭和二年、印刷改造社)第七章「印刷工の性質」一九〜二〇頁には、三谷が最初に勤めた印刷所について、かう書かれてゐる。

自分本意で申す譯ないが手近かな處から申上げるのでありますが、私が初めて印刷に從事したのは福井縣福井市で、時は明治三十年の五月でした。丁度小學校の卒業期の直後であつたゝめに、其年に福井で印刷見習工は十四、五人も在つたと思ふ。其内で平民の子供は三、四人で後の十一、二人は皆士族であつたのである、其當時私が初めて入社した會社の職工(活版)は文撰三人、植字一人、ロール方一人、ハンド方一人、見習四人、運轉工(ブリ𢌞し)一人であつたが、殆と士族で其内で文撰工一人、見習二人が平民で、後の九人は士族であつたのである。又其後途中から入社された重役の職工長是れも矢張り士族であつたから、職工達の言ふこと、成すことが、皆職人らしい、勞働者らしい事は一つとして無い、唯何となく意地張つた様な言葉付きで、武士臭い所が餘程あつた。

先日「明治三十年代の印刷工場とその動力」さ記した通り、犬丸義一校訂『職工事情』中篇には、福井県の統計が無い。福井県統計書が、印刷工場についての統計を整備してゐなかったからだ。
その代り、と言ってはナニなんだども、明治二十七年の『福井県農商統計捷覧』さは、活版印刷業者として二社の名が掲げてある。活版印刷と牛乳販売に携る福井市佐佳枝中町の交同社と、活版印刷福井市佐佳枝中町悠遠社だ。
一方明治四十二年の『福井案内記』を見ると印刷業者が三名あり、錦下の佐々木善太郎、佐佳枝上の山本浩、大和下の岩崎與三郎となってゐる。同じ明治四十二年の『福井繁盛記』の場合、本文で言及される印刷・活版業者は無いんだども佐佳枝上町の岡崎活版所だけが広告を出してゐる
さて、明治三十年五月、小学校を卒えた三谷幸吉が選んだ最初の職場は、上記のどれかに絞れるだらうか。
……
近代デジタルライブラリーを検索すると、現在、明治二十六年(出版条例によって奥付への印刷所明記が義務化された年)から明治四十三年までの間に福井で出版された印刷物が九十七点見つかる。
これを出版年昇順に一点一点奥付を眺めていくことで、幾つか判ったことがある。
まず、「農商統計」に名がある悠遠社。明治二十六年の『前田正名君性行一班』では品川太右衛門を印刷者とし印刷所名は「悠遠舎」と記されてゐる。同時期、岡崎左喜介を印刷者とする「有隣舘」の印刷物も見られるんだども、明治二十年代に「交同社」の印刷物は見えない。
また実は品川太右衛門を印刷者とする「悠遠舎」の印刷物は上記に限られ、以後「悠遠舎」または「悠遠社」の印刷者は「金井捨三郎」となる。
明治二十七年には「寺西活版所」「寺西市右衛門」の名も見えるが、明治二十七年から四十三年の間に手がけた印刷物は三点ほどの模様である。
品川太右衛門は発行者として多くの印刷物に名が見えるが、印刷者としては見かけなくなっていき、明治二十七年以後、おそらくは前述の岡崎左喜介と共同で「品岡印刷合名会社」を設立したものと見える。発行が品川で印刷が岡崎といふパターンが何点も見られる。
明治二十八年から明治三十一年に福井で出版された活版印刷物は、印刷者を岡崎とする「品岡印刷合名会社」の寡占状態であり、下記「会議事提要」を別として、他に金井の悠遠社と「河合仁太郎」が一点ずつ手がけてゐる。
明治三十年の『福井県会議事提要』は、交同印刷合資会社と、悠遠活版所、品岡印刷合名会社の三社連名となってをり、同明治三十二年版は小品岡印刷合名会社と寺西活版印刷所の二社連名となってゐる。
明治三十二年には花田吉治郎「花田活版印刷所」(花田活版印刷部)の名が出てくる。
明治三十三年には、前述「品岡印刷合名会社」が更に「小品岡印刷合名会社」となって藤島常吉を印刷者として『日本歴史暗記の捷径』を刷ってゐる。この「小品岡印刷」の「小」は、同じ明治三十三年の『九頭竜川筋出水予報調査』に印刷者として名を見せる小泉發治のことと思はれ、明治三十三年から三十四年にかけての「小品岡印刷合名会社」印刷物数点に、岡崎左喜介と小泉發治が印刷者として交互に名を残してゐる。
明治三十四年には、『福井案内記』に名があがっている山本浩の「山本進浩堂」が『寸抄寸評』で名を見せる。
明治三十八年には川瀬芳太郎の川瀬印刷部が、三十九年には稲上甚松の稲上活版堂が名を見せる。川瀬はその後も何度か名をみかけるが、稲上はこの明治三十九年の『実用催眠学講義録』以外に見かけない。
明治四十年の『福井県政界今昔談』は前述の小泉發治が「有隣舘」で刷ってゐる。
明治四十一年に、『福井案内記』に名のある岩崎與三郎「岩崎活版印刷部」が『改正肥料取締ニ関スル法規類聚』で初登場。同じ四十一年の『福井県師範学校入学小学校教員検定手続及試験問題』は印刷者が大塚徳治郎で印刷所が「岡崎活版所」となってゐる。
明治四十年前後に「小品岡印刷」は解散したのだらう、上述書以後、大塚または岡崎左喜介を印刷者とする印刷物を「岡崎活版所」が刷ってゐる。
明治四十二年の『福井県米作ト気象』を河合仁太郎「河合活版印刷」が刷ってゐるんだども、明治四十三年までの間について河合活版はこの一点のみ。
結局、『福井案内記』に名のある「錦下の佐々木善太郎」は見なかった。
……
ところで、日本新聞協会『地方別 日本新聞史』(昭和三十一年、日本新聞協会)所収の、柳村喜一(福井新聞相談役)「福井県新聞史」に、かういふ記述がある。

このとき晴れやかに船出したのが「若越自由新聞」である。明治二十三年十月紙商寺西市右衛門を社主として誕生し、編集にはこれまた各紙にあって浪人した連中がワンサと押しかけて花やかな紙面をみせ、当時県政界にデビューした大橋松二郎(のち代議士)が社長になったこともあった。

そのころの地方新聞は自ら印刷機や活版用具を備えていたものは少く、また洋紙の入手が困難であったので、紙商や活版所が新聞の経営に大きな存在となり権勢を持っていたのは、「若越自由新聞」だけでなく他紙にもみられたものである。

上述の寺西活版所は、書籍等ではなく「若越自由新聞」の印刷をメインにした活版印刷所であったのだらう。
また、『地方別 日本新聞史』「福井県新聞史」には、日露戦争後に誕生した「福井日報」に触れて「佐佳枝中町の佐々木印刷所から発行した」とある。おそらくは錦下に住む佐々木善太郎が、印刷所を佐佳枝中町に持ってゐたといふことなのだらう。
……
さて、明治三十年五月、小学校を卒えた三谷幸吉が選んだ最初の職場について、三谷はかう書いてゐた。「又其後途中から入社された重役の職工長是れも矢張り士族であつた」。
これはつまり、明治三十年五月に福井で最も勢いのあったらしく見える「品岡印刷合名会社」を三谷が職場として選び、その「品岡印刷合名会社」であったところへ明治三十三年に重役として小泉發治が入社し「小品岡印刷合名会社」になったことを指すものだらう。
――近代デジタルライブラリー資料の上記観察から己はさう想像したんだども、果たしてさう言ってしまって良いものか。
福井県布令目録類纂の第一編(明治十六年)の奥付を見ると、発売人 書肆が「福井県平民」の岡崎左喜介となってをり、印刷が「悠遠舎」になってゐる。また、同第二編(明治十七年)の奥付では、発売書肆が「福井県平民」岡崎左喜介であるものの印刷は「交同社」である。ちなみに第三編以後の印刷は「悠遠舎」のみ。
明治二十年に『月琴楽譜』売捌人として名を見せる品川太右衛門も「福井県平民」である。
岡崎も品川も、「出版も行ふ本屋」であったものが、やがて出版中心の品川と印刷中心の岡崎として「品岡印刷合名会社」へと協働していったものと見えるんだども、はてさて。
……
福井で出版された明治二十五年以前の印刷物は近代デジタルライブラリーに96点ある。
後々まで活版の印刷者として活動してゐて「福井県士族」の肩書きで名が見えるのは、どうも明治二十二年『薬局覧要』を手がけた金井捨三郎のみの模様である*1
明治三十年当時金井捨三郎が指揮したと考へられる悠遠社といへば、『福井県農商統計捷覧』にも名が載った、名門とも言へる印刷所であったらう。
明治三十年五月に三谷幸吉が選んだ最初の職場は、福井県士族金井捨三郎の悠遠社(悠遠活版所)であった可能性が極めて高いと現時点では推定しておく。
とすると、明治三十一年の『福井県治一斑』(第六回)は発行が品川太右衛門であり佐佳枝中町五十二番地の悠遠活版印刷所が刷ってゐて印刷者が浪花上町五十九番地の「大塚徳次郎」となってゐるんだども、或はこの大塚が「其後途中から入社された重役の職工長」であったらうか。残念ながら大塚の名は古い印刷物には見られず、士族・平民の別は判らない。
ちなみに『福井県警察統計表』では浪花上町五十九番地の「大塚徳治郎」となってゐるこの大塚は、おそらくは後に岡崎活版所の印刷者として登場する大塚徳治郎と同一人物だらうと思ふんだども、この頃三谷幸吉は既に神戸の人である。
……
ひょっとすると、三谷自身が「明治三十六年に神戸の金子印刷所で差替係長として働いていたと述べている」と小野寺逸也氏が記してゐる『直ぐ役に立つ植字能率増進法』(昭和十年、印刷改造社)さ、福井で最初に勤めた印刷所のことも具体的に書かれてゐたりするのかもしれない。

*1:初期の教科書や和讃本などを中心とした製版の印刷者としては士族の肩書きで平澤潤助が活躍してゐた。