日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

島連太郎の三光社での活動時期と三秀舎の創業時期

石井久美子「『九ポイント假名附活字見本帳』に見るルビ付き活字 ―外来語定着の一側面―」というテキストを知ったことから、『漱石新聞小説復刻全集』と山下浩『本文の生態学』を読み直していた。実は明治末から大正・昭和戦前期における新聞活字の変遷史を社史等の記述ではなく実態に即して辿り直してみようと思い立ったことと、その状況の図として東京朝日新聞を選んだことは、半ば、山下氏の大きな仕事に対する印刷史研究者からの20年遅れでのささやかな貢献という気持ちがあった。

漱石が掲載を始めた明治40年頃から10年間ほどの間」に、東京朝日新聞の本文活字サイズは三種類が使われていて、明治40年の『虞美人草』は「五号活字」1行19字詰、明治42年の『それから』は五号活字ではなく「9.5ポイント活字」1行18字詰、大正3年の『先生の遺書』から『明暗』までは「9ポイント活字」1行17字詰である――社史の記述が誤っているため仕方がない面もあるが、原紙を見れば1文字減ったというだけでは説明がつかない行長の変化に気づく――という点は、先日公開した「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」で図示した通り。

今回『漱石新聞小説復刻全集』を再読したのを機会に、同書全体にとっては枝葉の些細な事柄だが、我々のような印刷史研究の方面から訂正をしておかねばならない点について、メモを残しておくことにする。


漱石新聞小説復刻全集』11巻「小品」巻末に記された山下浩氏による解題の「(五)東京版・大阪版―主に印刷過程について」306頁:

一般の入手は困難なPR誌(非売)の、『アステ』第8号(リョービイマジクス、1990年12月25日)があり、新聞の印刷を特集し、その中には島連太郎の著書から「揺籃期の新聞印刷」が採録されており、輪転機採用の時期や経緯、ルビ付き活字の制作時期、採用時期等について多くの情報を与えてくれる(注16)。

この注16は311頁に次の通り掲載:

島連太郎(1880-1941)著『明治大正日本印刷術史』。なお、『本文の生態学』の二章で『坊ちやん』の文選工に言及したが、そのうちの一人「島」は、大をなす前の若き島連太郎であったかもしれない。

『アステ』第8号「特集新聞」中に、「資料発掘 揺籃期の新聞印刷/『明治大正日本印刷術史』より」として採録された「揺籃期の新聞印刷」については、欄外冒頭で、次のように説明されている。

本資料は『明治大正日本印刷術史』の「新聞印刷法の変遷」の章の一部を採録したものである。
島連太郎(1880-1941、福井県出身)は明治34年(1901)東京・神田に活版業三秀舎を創立し、昭和5年(1930)、創立三十周年を記念して『世界印刷通史』中山四郎・石川幹之助共著とこの『明治大正日本印刷術史』郡山幸男・馬渡力共編を刊行した。

若干判りにくい説明になっているかもしれないが、『世界印刷通史』『明治大正日本印刷術史』とも、発行者は島連太郎(発行所は三秀舎)だが、上記欄外注記の通り『世界印刷通史』は中山四郎と石川幹之助の共著で、『明治大正日本印刷術史』は郡山幸男と馬渡力の共編になる書籍である。島の著作ではない。
この『アステ』再録「揺籃期の新聞印刷」で本件に関し主眼となる「新聞活字の変遷」の項を見ると、冒頭の「始め本木氏が活字の大小基準を定むるや欧字スモールパイカを以て最も多く使用さるゝ型と思惟し」が「使用されるゝ型と」という具合に翻刻されているなど、参考資料として掲げるには不安が残る。できれば原書を参照されたい。
ところで、山下氏は『アステ』欄外注を良くご覧になっただろうか。確かに島連太郎は秀英舎で印刷業に従事するようになっているのだが、「明治34東京・神田に活版業三秀舎を創立し」ということは、明治39年に発行された『ホトトギス』に掲載された漱石『坊ちやん』の組版について秀英舎の文選工として従事することは、まず無かったと思ってよい。

『アステ』欄外注で明治34年とされる三秀舎の創立年だが、現在の三秀舎ウェブサイトにある「三秀舎116年の歩み」明治34年ではなく明治33年創業説を採っている。

三秀舎ホームページが島連太郎の半生記としてリンクを掲げる「KANDA アーカイブ「百年企業のれん三代記 」第21回」は、島からの聞き書きとして、「明治19年、17歳のとき」「秀英舎に見習いとして就職し、営業職として活躍」し、「明治32年3人の仲間と神田美土代に、合資会社三光社活版印刷所を設立」するが「明治33年に三光社を発展的解消し、三秀舎を立ち上げ」たと記している。


現存する三光社・三秀舎の印刷物を追いかけると、例えば明治30年8月に秀英舎第一工場が初版を刷った島崎藤村『若菜集』は同年10月に「再版」が発行されているのだが、前職の縁で紙型を預かって「再版」と称する増刷の印刷を請け負ったものか、神田美土代町二丁目一番地の三光社・島連太郎がこの「再版」の印刷者として奥付に表示されている
同じ明治30年の9月に初版が印刷・発行された大和田建樹『散文韻文 雪月花』も印刷所・印刷者は神田美土代町二丁目一番地の三光社・島連太郎で、翌明治31年9月に初版印刷発行の森田思軒『無名氏』の印刷所・印刷者も神田美土代町二丁目一番地の三光社・島連太郎である。
このように、少なくとも明治30年には島連太郎が関係する三光社が活動を開始していたと見て良い。
また国文研の近代書誌・近代画像データベースで見かける最も古い神田美土代町二丁目一番地・三光社の印刷物は、明治28年11月に「三版」発行となった納所弁次郎編『日本軍歌』になるようで、この時の印刷者は金時金平名義となっているのだが、金時金平が「3人の仲間」の一人であるかどうかは未詳。

国会図書館デジタルコレクションで博文館発行の印刷物を見ると、明治33年12月印刷発行の石橋思案編『筆と紙』の印刷所・印刷者は神田美土代町二丁目一番地の三光社・島連太郎だが、翌明治34年1月印刷発行の江見水蔭『軍事小説 突貫』では神田美土代町二丁目一番地の三光社・「白土幸力」、更に同年34年2月印刷発行の大町桂月『一蓑一笠』や同年4月印刷発行の江見水蔭『短編小説 月と梅』では神田美土代町二丁目一番地の「三光堂」・白土幸力となっている。

同じく文武堂のものでは、明治33年1月印刷・3月発行の中央新聞社編『名士の嗜好』の印刷所・印刷者は神田美土代町二丁目一番地の三光社・島連太郎だが、翌明治34年9月印刷・10月発行の笹川臨風『遊侠伝』では神田美土代町二丁目一番地の「三秀舎」・島連太郎となっている。

三秀舎設立の登記上の日程は判らないが、このあたりの奥付記載の状況を勘案すると、「三光社を発展的解消し、三秀舎を立ち上げ」たのは明治34年初め頃のことかと思われる。


新聞社や出版社あるいは印刷会社等の社史あるいは印刷史の記述について、どの程度信用できるものと判断していいのか、悩ましいことばかりである。