日本語練習虫

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川勝五郎右衛門版の小児療治調法記

『重宝記資料集成』第二十三巻(isbn:465303902x)に収録されてゐる養拙斎退春『小児療治調法記』さ、書林川勝氏の企画で本書が成ったといふ旨の叙文がある(“集成”の編者長友千代治の解説によると、書林川勝氏は元禄十五年頃までの京都の枡屋五郎右衛門の称とのこと)。“集成”のは正徳五年の大坂柏原屋清右衛門版。
当時の川勝五郎右衛門の活動について、藤原英城「獄前の都の錦――書肆川勝五郎右衛門をめぐって」(『近世文藝』2002年7月、通巻76号)ば眺めてみると、こんな記述がある(『近世文藝』p.56)。

本屋仲間の結成(元禄七年)、重版類版の禁制(元禄十一年)という老舗優遇とも言える京の出版界の状況下にあって、物之本屋としては後発に属する川勝五郎右衛門は、他の本屋との差別化を図るためにも、都の錦の志向する「いにしへのちんぷんかんを。当世の平直詞(ひらたいことば)に仕替」(『元禄曽我物語』)、「やわらなかる中に又ちんぷんかんをくわへ」(『御前於伽』)る、いわゆる俗解物には食指が動いたことであろう。

『小児療治調法記』の叙が「一日書林川勝氏なる者。二帖の書を携へ来り。これ那須玄竹先生の編集医方聚要の中小児門也。ねがハくハ和字と為て。世に便あらしめんといふ。予辞するに忍びず。訳して和語とし。名づけて小児療治調法記といふ。」で始まるのは、上記引用文の推測を裏付ける一例と言へるだらう。
『近世文藝』pp.54-56に掲げられた川勝の出版リストさは『小児療治調法記』らしき標目が出てゐないんだども、これは元禄十七年から正徳五年までの間に川勝版『小児療治調法記』が出版されたと見るべきか、単にリストから漏れてゐるだけのことと見るべきか。
川勝五郎右衛門版の小児療治調法記について言及されたテキストや、川勝/河勝/枡屋五郎右衛門の重宝記群について言及されたテキスト、更には川勝五郎右衛門版の小児療治調法記そのものば探してゐるんだども、今のところ見当たらねぇでゐる。