日本語練習虫

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渡辺順三と徳永直が小林多喜二『党生活者』の伏字なしゲラを読んだ話

経堂・豪徳寺仲間だった渡辺順三と徳永直が、小林多喜二『党生活者』の伏字なしゲラを読んだ話が、倉田稔『小林多喜二伝』(asin:4846004082)に出てくる
http://blog.goo.ne.jp/takiji_2008/e/28cda157389b72f57629388aba088809
――といふので倉田“多喜二伝”ば借覧。
確かに第6章「東京時代とその地下活動」中の「『党生活者』とハウスキーパー」の節、795頁さ、上記ブログに抜き書きされてゐる箇所がある。んだども、どういふわけか、注釈には「渡辺順三、120〜121ページ」とか「渡辺、118〜119ページ」とあるのみで、渡辺順三の何といふ文献に原記述があるのか、不明である。
試しに渡辺順三の自伝である『烈風の中を』(1971、東邦出版社)ば眺めてみたところ、上記注釈の頁数が合致したので、倉田“多喜二伝”の引用は『烈風の中を』に依るのだらう。『烈風の中を』120-123頁の第19節「小林多喜二のこと」の前半に、倉田“多喜二伝”771-772頁に記されてゐる“落合のナップの事務所での会合”のエピソード(元ネタの明記無し)や、渡辺順三の記述として書かれた「この頃のプロ短歌は面白くないね」と小林多喜二が渡辺に言ったといふエピソードが書かれてゐる。
第19節「小林多喜二のこと」の後半が、多喜二伝795-796頁に記された、渡辺順三と徳永直が小林多喜二『党生活者』の伏字無しゲラを読んだ話である。『烈風の中を』122-123頁を抜き書きしておく。

昭和三十三(一九五八)年六月九日NHKで、小林多喜二を偲ぶ放送があった。私は思い出をあらたにし、幾度か涙をぬぐいながらきいた。そのときつぎのような歌をつくっている。

伏字なしの「党生活者」をゲラ刷りにてわが読みしは多喜二の逮捕される前

上記の歌のなかの「伏字なしの『党生活者』をゲラ刷りにてわが読みしは」という歌について思い出したことがある。それは多分昭和八年の一月ごろではなかったかと思うのだが、そのころ私は世田谷の豪徳寺裏に住んでいて、徳永直の経堂の家まで十分か十五分の距離であった。だから毎日のように往来していたが、ある日徳永君がやってきて、かなり分量のあるゲラ刷りを出して、
「実は中央公論のある編集者がきて、小林多喜二から原稿が送られてきて、さっそく組版にまわしてこの通りゲラ刷りができたのですが、いま発表するのは適当でないのではないかという社内の意見で、当分保留しておこうということになったのです。それでこのゲラ刷りを小林氏と親しかった人々にだけお見せしようと思って、ここに持ってきました。先生がごらんになったら、ほかの適当な方にも廻して頂いて結構です、ということなんだ。それで僕は昨夜ひと晩かかって読んだんだが、とにかく素晴らしいもんだ。それで君にも読ませたいと思って持ってきたんだ。君が読んだらいちおう僕の方へ返してくれ。僕から誰かほかの人たちにも見せるから」
ということであった。もちろん当時小林は非合法活動に入っていたので、私は「もぐっていてずい分大胆なことをするものだ」と思いながら、とにかく一字も伏字なしの「党生活者」を読むことができたのであった。ところがそれから間もなく小林は街頭で捕えられ、その日の拷問で殺されたのであった。そしてこの「党生活者」は、たしかその年の四月号と五月号の『中央公論』に「転形期の人々」という題名で掲載されたが、もちろん××だらけであった。
去年のはじめごろであったか、『赤旗』の「交流」欄に、手塚英孝がこの、伏字なしの「党生活者」のゲラ刷りについて書いていたが、それによるとそのゲラ刷りは、誰かが徳永君の玄関へ放りこんでいったもので、朝、徳永君が起きて玄関の戸をあけにゆくと、それが玄関の土間にあったと書いていたのである。しかし私が徳永君からきいたのは、『中央公論』の編集の人が届けてくれたということだった。あるいは私の記憶ちがいで、手塚君のいっている方が事実だったのかも知れない。人間の記憶などというものはあまり信用できないことは、私自身にも経験はあるが、この「党生活者」のゲラ刷りのことは、どうも私の記憶の方が自然なことのように思われるのだが、どんなものであろう。

渡辺と手塚の記憶の件、徳永直が渡辺順三には中公編集者持参説を語りながらゲラ刷りを読ませ、手塚には玄関投げ込み説を語りながらゲラ刷りを渡した――といふ可能性があるんぢゃないかと想像した己。