『大日本印刷130年史』608頁に「樹脂版の導入」という項目がある。全文を引用してみよう。ちなみに書かれている年の区切りは「昭和」である。
四五年ごろ、活版印刷における鉛版工程では、鉛を使う作業環境の改善、および将来に向けての文字組版、写真植字化への対応、作業工程の合理化等の視点から、樹脂版化の検討が進められた。当初、プラスチックで実験が行なわれ、その後、帝人㈱のデビスタ、旭化成工業㈱(現、旭化成㈱)のAPR(Asahi Photo Resin)の樹脂版で実験が繰り返された。しかし、耐刷力の不足、樹脂版作成工程の複雑さ、印刷機への装着方法の不安定さ、材料費の高騰など数多くの課題があった。
五〇年代に入ると、工場や技術部のスタッフを中心に検討チームをつくり改善を進めた結果、実稼働の見通しが立ったので、五五年にAPR樹脂版を使用する自動刷版機SRI-Xを導入し、五七年八月からAPR樹脂版に完全移行した。
当時、活版輪転機の樹指版は、新聞社ですでに採用されていたが、出版分野の印刷で樹脂版を採用したのは、当社が最初であった。樹脂版は、鉛版よりも版の精度が高く、軽くて安全であることに加え、印刷着手時のムラ取り時間の短縮、搬送の容易さ、輪転機の回転数増加といった利点が多かった。特に部数の多い少年コミック三誌(『少年チャンピオン』〈秋田書店〉、『少年サンデー』〈小学館〉、『少年マガジン』〈講談社〉で計六〇〇〜七〇〇万部)などの印刷に大いに貢献した。また刷り本の品質の安定面では女性週刊誌三誌(『週刊女性』〈主婦と生活社〉、『週刊女性自身』〈光文社〉、『週刊女性セブン』〈小学館〉)の品質向上に貢献した。加えて、鉛害の解消など労働環境の改善にも効果があった。
利点とされる「輪転機の回転数増加」については、写研のPR誌『QT』64号(1985年6月)に、当時毎週四〇〇万部を売っていた『少年ジャンプ』を手がける共同印刷の話が詳しく記されている。
同誌は毎週月曜日に店頭に並ぶが、そのための最終入稿が前々週の金曜と土曜、これにはすでに写植も貼られていてすぐに製版にとりかかる。印刷は紙のコストの関係から活版輪転機が用いられるが、現在ここで使われているのは樹脂版。以前の亜鉛版では重くて輪転機の回転数が上がらず、大量の印刷に対応するのには限界があったために変更された。これによって輪転機の回転数は約四〇パーセントアップして毎分六〇〇回転となった。二十年前の約二〇〇回転からは三倍の量をこなせるようになったが、それでも現在の部数をこなすには十三台の輪転機を六日間、二十四時間体制で動かし続けなければならない。
年号を揃えておくと、大日本印刷では昭和五五年(1980)に樹脂版の導入が始まり五七年(1982)に全面移行で、共同印刷では昭和六〇年(1985)年の少し前に樹脂版になったという具合に見える。
『少年チャンピオン』で言うと、手塚治虫『ブラックジャック』の連載が1973年〜78年で更に83年まで読切掲載、石井いさみ『750ライダー』が1975年〜85年。
『少年サンデー』で言うと、高橋留美子『うる星やつら』の連載が1978年〜87年、小山ゆう『がんばれ元気』が1976年〜81年。
『少年マガジン』で言うと、矢口高雄『釣りキチ三平』の連載が1973年〜82年、小林まこと『1・2の三四郎』が1978年〜83年。
『少年ジャンプ』で言うと、秋元治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の連載が、1976年に始まって2012年現在も継続中、原哲夫・武論尊『北斗の拳』が1983年〜88年。
こうした、樹脂版導入前後にまたがるような期間の連載作品を仔細に眺めていくと、あるいは「樹脂版は、鉛版よりも版の精度が高く」ということの効果が目に見える、かも、しれない。
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ちなみに、1970年頃のマンガ週刊誌を見ていると、ほとんどがペンでアミをかけて濃淡を作り出していて、製版時に「地紋」を入れる作品が僅かに見られる状況だったようだが、「最後の地紋作家」となったのは誰で、いつ頃まで地紋指定をしていて、いつ頃からスクリーントーンに切り替えたのだろう。
その切り替えは、マンガ家側の自主的な行動によるものか、印刷工程の変化によるものか――といったことも、気になるところである。
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4月22日追記:
共同印刷における少年ジャンプの作業について、一色登希彦氏が2009年のブログ記事で「工場見学」のレポートをされていたので、URLをメモしておく。2009年当時で、InDesignでの作業と写植貼りが半々だったそうだ。
http://toki55.blog10.fc2.com/blog-entry-148.html