大正4年から6年にかけて新潮社が発行した出版物を見ていると、正体不明な9ポイント活字が使われているのを目にする。
NDLデジコレインターネット公開資料のうち、大正3年に発行された27点中、本文に9ポイント活字を使っているのは『子の見たる父トルストイ』1点のみで、博文館印刷所が7月6日付で印刷した「築地電胎9ポイント」型活字の使用例である。
新潮社の出版物では、大正4年に発行された24点のうち次の5点において、問題の正体未詳9ポイント活字の使用が開始されている。
- 大正4年5月16日印刷(東京市神田区宮本町5番地「中正社」高橋治一)、中沢臨川『タゴールと生の実現』
- 大正4年5月20日印刷(東京市神田区宮本町5番地「中正社」高橋治一)、ピエエル・ロティ『お菊さん』
- 大正4年10月19日印刷(東京市神田区宮本町5番地「新潮社印刷部」高橋治一)、志村智鑑『聖訓の研究』
- 大正4年11月6日印刷(東京市神田区宮本町5番地「新潮社印刷部」高橋治一)、トルストイ『ナポレオン露国遠征論』
- 大正4年11月10日印刷(東京市神田区宮本町5番地「新潮社印刷部」高橋治一)、三宅雪嶺『三宅雪嶺修養語録』
下記はNDLデジコレによる、中沢臨川『タゴールと生の実現』の冒頭ページ。
過日吹囀した通り、去る3月10日付で発行された『アイデア』377号にパイロット版が収録されている白井敬尚『組版造形』が取り上げる和書に関する、活字書体や字間・行間の「リヴァース・エンジニアリング」を「組版書誌」という名称で担当させていただいていて、このパイロット版で取り上げられている竹久夢二『小夜曲《せれなあど》』(大正4年12月20日発行)の本文もまた、この正体不明な9ポイント活字で刷られている。
この9ポイント活字、仮名の骨格は明治末までに作られていた秀英舎製文堂の三号太仮名に似たスタイルとなっていて、確かに秀英体らしさを感じる書体ではあるのだけれども、大正5年頃の新聞各紙に秀英舎が提供した9ポイント/9ポイント仮名つき活字の書体は我々が「秀英電胎9ポイント」型と呼ぶスタイルであって、『せれなあど』タイプのものではない。
以後、大正5年に「新潮社印刷部」高橋治一名義での本文9ポイントの活字は全て『せれなあど』型。
大正6年4月2日印刷(「新潮社印刷部」高橋治一)の『トルストイ叢書 第6』からは「秀英電胎9ポイント」活字との混植が始まり、10月14日印刷(「新潮社印刷部」高橋治一)の『有島武郎著作集 第一輯』からは全て秀英電胎9ポイントになるようだ。
『秀英体研究』に掲載されている、秀英舎製文堂の大正3年版総数見本『活版見本帖 Type Specimens』に掲載されているポイント系活字が「19ポイント」「9ポイント半」「9ポイント半仮名付」のみであるように、大正3年の段階では「秀英電胎9ポイント」は未完成である。
過去の観察に基づく限り、「新潮社印刷部」高橋治一名義での印刷物の大半は、秀英舎の活字を用いた印刷物になっているのだが、「秀英電胎9ポイント」以前に、ごく短期間だけ「初期型」の秀英9ポイント活字が短期間使われていたというようなことなのだろうか。
あるいは、勇文堂などこの時期にポイント活字を供給していたと見られる他の活字製造業者による9ポイント活字を、中正社/新潮社印刷部が一時的に使用していたということなのだろうか。
手がかりを得たいと考えているが、今のところ、NDLデジコレインターネット公開資料の大正3年〜6年発行出版物のうちNDC91類1586点を十分に調査できておらず、中正社/新潮社印刷部以外でこの正体不明の9ポイント活字を使っているように見える資料も、秀英舎が9ポイントで刷った資料も、どちらも見つけることができないでいる。
9月の刊行が予定されている白井敬尚『組版造形』(誠文堂新光社)の原稿締め切りまでに、この9ポイント活字の素性を明らかにすることができるかどうか。諸賢のご教示を希う次第。