日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

青森と秋田の「謎五号」用例

このところ追っている、「『日本』紙や『国家経済会報告』等に見える謎の五号仮名」の件、「北の大地に渡っていた謎の五号仮名」で見た北海道の事例に続いて、今回は北東北のうち国会図書館デジタルコレクションで出版地が青森と秋田の資料状況を見ておきたいと思います。岩手の状況も拾いつつあるのですが、後日別記事にて。

青森県明治21年~40年)の事例

明治35年頃までは前期五号が多く、36年頃から後期五号(前期後期混用含む)の使用が見られます。以下の3点だけが「謎の五号仮名」を主体とした乱混ジャンブルフォントになっていました。「あ」の字は美華、築地前期、印刷局の3つが混ざっているというちょっと珍しいパターン。

青森県印刷史』の第三章「明治時代の印刷業」の「一、明治初期の印刷」によると青森県内の最初の活版印刷所は明治8年に開業した角田平左衛門の印刷所であり、明治10年頃から角田印刷所にとってかわったのが「二、新聞業と印刷」(19頁~ https://dl.ndl.go.jp/pid/12048254/1/36、「三、明治の弘前印刷業」(25頁~ https://dl.ndl.go.jp/pid/12048254/1/39で度々言及されている、「青森県庁内番外一番地」の「日進堂」だと書かれています。

明治10年に伊藤祐胤が編集兼出版人として発行した『青森県職員録 明治10年4月改』の奥付では伊藤の所在が「青森県庁廓内番外一番地 日新堂寄留」となっておりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/778981/1/24、また文部省編『日本教育史資料〔3〕諸藩の部 西海道,郷学』の「陸奥国」のところでも明治14年に東奥義塾が活版印刷器械を譲り受けた相手が「青森日新堂」と書かれているようにhttps://dl.ndl.go.jp/pid/809556/1/210、本来の表記は「日進堂」ではなく「日新堂」だったのではないかと疑っています。

この時期の印刷所として『青森県印刷史』に名前が挙がっている青森印刷所や近藤印刷所の印刷物には平仮名交りのものが見当たらず、東奥印刷所は築地五号でした。東奥印刷所が手掛けた工藤専助『晴雨考 明治28乙未年』明治28年 https://dl.ndl.go.jp/pid/760493/1/9も築地前期五号であり、上記3点が際立つ格好です。

また明治20年代末頃から弘前で営業を始めたらしい野崎活版所や弘前活版所の印刷物は見つからず、白崎印刷所の1点も築地五号であるなど、冒頭に記した通り上記3点だけが特異な事例となっています。

秋田県明治21年~40年)の事例

当初は概ね築地前期五号(印刷局系の混用含む)、34年頃から後期五号(前期後期混用含む)となっていました。この期間では次の2点だけが「謎の五号仮名」を主体とした乱混ジャンブルフォントになっていました。



「『日本』紙や『国家経済会報告』等に見える謎の五号仮名」で拾い出した南東北の状況を振り返ると、山形では明治20年から25年、宮城では明治23年から28年、福島では明治22年から27年。また北関東の群馬では明治23年から28年、栃木では明治24年から30年、茨城では明治21年から26年の用例が見つかっていました。

どういうわけか、青森と秋田で、ともに明治27年のごく一部のみ、謎五号主体の印刷物が手掛けられていたという状況。背景にどういう事情があったのでしょう。

いまは「謎の五号仮名」を追うので精一杯という状況ですが、日本各地の活版所において築地活版以外の活字がどれくらい流通していたか、いつごろ流通していたかという観点や、築地前期五号から後期五号への移行は(築地活版が実施した明治31年のモデルチェンジと比べて)どれくらいのタイムラグが生じているかといった観点で出版三都以外の日本の印刷史を見直すこともできそうだよねという感触を得ています。後学を俟ちたいところ。