日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

築地活版解散後に発行されたことが明らかで「築地体」の活字が掲載されている活字見本帖『民友社の活字』

1930年代から40年代に東京築地活版製造所以外で売られていた「築地体」の活字

例えば森川龍文堂『活版総覧 : 和欧文活字と印刷機械』昭和81933https://dl.ndl.go.jp/pid/1209922/1/20に見られるように、東京築地活版製造所以外でも「築地体」の活字は販売されていました。もっとも、その時点で存在していた東京築地活版製造所の全てのサイズ・書体が扱われていたかどうかは判りません。

昭和111936年11月に字母宗が発行した『五號漢字九千体見本』の文字面typefaceは、同時期に販売されていた築地活版の五号明朝(『昭和十一年五月 改正五號活字總數見本 全』https://www.asahi-net.or.jp/~sd5a-ucd/Tsukiji-5go-S11-Specimenbook.htmlでした。

字母宗『五號漢字九千体見本』(昭和11年11月)表紙
字母宗『五號漢字九千体見本』(昭和11年11月)7頁
字母宗『五號漢字九千体見本』(昭和11年11月)26頁

特殊な時代の特別な事例になりますが、戦時統制下の昭和151940年には、「新聞社の活字並鑄込替へは從來個々の取引が行はれてゐたが今般の新聞統制其他の關係で新聞協會では今後之を統一し、東京市京橋区銀座西八丁目五民友社活字鑄造部を指定」となったことが同年の『印刷時報』11月号で報じられていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1499118/1/64。後で触れますが、この時期以降の新聞活字がサイズによってMMポイントは築地体でNNポイントは秀英体といった様相であるのは、民友社の商品構成によるものだったのでしょう。なお、雑誌広告などに「民友社活字鋳造所」名義での活動は見られず、1937年から1947年は「民友社活字製造所」名義で活動し、1948年から1954年までは「民友社活字製造所」と「民友社活版製造所」が混在、1955年から1984年は「民友社活版製造所」名義で活動していたようです。

1939年の『官報』で見る東京築地活版製造所の解散

関東大震災によって工場と資機材に甚大な被害を受けた東京築地活版製造所は、1920年代から30年代にかけての時代の変化に対応することが出来ず、登記上、昭和131938年3月17日付で解散しました。清算人として、同日付で東京市日本橋区呉服橋一丁目三番地四の赤澤寅三が就任しましたが昭和14年4月20日付『官報』7頁下段 https://dl.ndl.go.jp/pid/2960179/1/37、11月27日付で赤澤から東京市下谷区上野櫻木町十七番地の日比野幸一に変更されています昭和14年4月20日付『官報』45頁上段 https://dl.ndl.go.jp/pid/2960179/1/56。赤澤は弁護士で(『日本辯護士名簿』60頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1883454/1/33、日比野も弁護士昭和10年『日本紳士録 39版』488頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1145955/1/299

昭和13年3月17日付で解散はしたものの清算が完了しないまま、昭和14年3月12日付で本店を東京市京橋区築地三丁目から淀橋区戸塚町四丁目に移転する旨の登記が公告されています昭和14年8月4日付『官報』20頁上段 https://dl.ndl.go.jp/pid/2960268/1/44 および昭和14年8月26日付『官報』1156頁下段 https://dl.ndl.go.jp/pid/2960287/1/27

1939年の『印刷雑誌』で見る東京築地活版製造所解散後の「築地体」活字その他資機材

昭和141939年の『印刷雑誌』に、少しだけ解散後の東京築地活版製造所周辺状況が見えています。
まず1つめ。大正14年創業で(『日本工業要鑑 昭和16年版』販売会社商店之部210頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1071135/1/1300、各種中古印刷製本等機械類の売買を行う小島商店が*1、築地活版の元々の営業拠点だった築地三丁目10番地を「小島商店出張所」として「元、株式会社東京築地活版製造所備品」について「昨年末、弊店にて賣立の際は、御愛顧により非常なる良成績を収め候段御高禮申上候、尚多少の殘品有之候間御引合ひ願上候」との広告を出しています(『印刷雑誌』1月号85頁)。

小島商店広告(国会図書館蔵『印刷雑誌昭和14年1月号)

広告文中で示されているように、築地活版が関東大震災後に改めて揃え直した印刷製本機械類が中古品として売り出されていて、昭和14年初めの頃にまだ「多少の残品」がある、という状況だったようです。広告中で「活版鑄造機」と書かれているものが、活字を鋳造する機械のことなのか、紙型から鉛版を鋳造する器具のことなのか、その両方なのか、そのあたりは判りません。

さて、肝心の活字や母型matrix鋳型type mould等はどうなったか。同じ1月号で大岡活版製造所が「歐文母型並に鑄型全部と漢字の一部を讓り受け」たことを告知しています。

大岡活版製造所広告(国会図書館蔵『印刷雑誌昭和14年1月号)

3月号の雑報欄「業界零れぐさ」に、「築地活版後日譚」という記事が掲載されています(44頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/3341177/1/62。曰く:

◎人の噂も七十五日、この頃は築地活版の成り行きを口にする人も尠くなつた。どういふ經過を辿つて現在どうなつたものやら一切有耶無耶、誰も眞相を知らぬ有様。
◎社屋は松竹本社に賣るとか何とか噂があつたが、結局債権者たる勸銀の手によつて、七社統制の電線會社とやらに五十萬圓で賣却されてしまつた。その地下には大震災當時埋れた地金が一萬五千圓程は潜んでゐるといふので、關係者が掘盡して分取つてしまふといふ、歴史ある築地活版の末路も餘りにも悲惨なる姿をとつた。それでもまだ解散事務は完了してゐないので、實體は消滅しても名前のみは依然殘つてゐる譯だ。

そして6月号の「質疑応答」欄に、地方の印刷所から「東京築地活版製造所の細型五號母型を買取り、それより活字製造を爲し居る製造所名及び住所」を乞う質問が寄せられています(52頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/3341180/1/68。編集部からの回答は「築地活版の和文母型は同社崩壊後各地に分散してしまつたので、細型五號母型を何處で買取つたか只今の所一寸不明ですが、同型の活字はその他の各所から販賣されて居りますから、これをお使ひになればよろしいでせう。その販賣店は直接返信します。」というものでした。

「築地体」と呼ばれ得る活字全体を一手に引き継いだようなところは無かったが、特定サイズ特定書体を販売するところはあった、というわけですね。

民友社活版製造所『民友社の活字』(推定1949-50年)

「民友社活版製造所」名義で発行された『民友社の活字』という24頁の見本帖があります。残念ながら発行年の記載がありません。扉頁で発行責任者が「渡邊宗助」と記されていることから、先代の逝去に伴って社長となった宗助が取り急ぎ発行した見本帖――と考え、発行年を1949-50年と推定しました*2

『民友社の活字』表紙
『民友社の活字』扉
『民友社の活字』2頁「明朝書体」「ゴヂツク書体」
『民友社の活字』3頁「清朝書体」「明朝書体」「太仮名」
『民友社の活字』裏表紙

築地活版の初号仮名が「かな民友明朝MYEM」「かな民友ゴシックMYEG」として写植文字盤化されていたように、1980年代半ば頃までは「民友社の初号活字」として築地初号活字を買い求めることができたということになるのでしょう*3



2025年1月26日、「字母宗『五號漢字九千体見本』(昭和11年11月)7頁」の画像を追加しました。

*1:昭和10年版『全国印刷材料業者総攬』には東京だけでも結構な数の中古印刷機械専門商社が掲載されていて小島商店はその中のひとつであると判ります https://dl.ndl.go.jp/pid/1234542/1/59 。また『印刷時報昭和15年10月号を見ると、小島商店の店主である小島時之助は東京印刷製本中古機械商組合の組合長でもあったようです https://dl.ndl.go.jp/pid/1499117/1/53

*2:昭和30年に発行された『日本印刷人名鑑』の「渡邊宗助」略歴には「昭和二十六年厳父宗七氏歿後若くして社長に就任」という記述と「昭和二十四年六月死去により現社長宗助氏社業を継ぐ」という記述が並んでいます(https://dl.ndl.go.jp/pid/2478821/1/223)。『印刷雑誌』昭和24年6月号に宗七病歿の記事があり(https://dl.ndl.go.jp/pid/3341245/1/19)、逝去自体は昭和24年のことで間違いないようで、おそらく同年同月に空白期間をおかず宗助が社業を継いだのでしょう。

*3:『全国工場通覧 1984年版』1938頁「ミ」末尾に民友社活版製造所の記載あり https://dl.ndl.go.jp/pid/12002729/1/1020 。同82年版までは代表者が渡辺宗助で(https://dl.ndl.go.jp/pid/12002172/1/970)、84年版では渡辺キヨとなっています。