日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

山本武夫・山本書店の情報求む

本日発売の『アイデア』368号「日本オルタナ精神譜 1970-1994 否定形のブックデザイン」では、巻頭に掲げられている「日本オルタナ出版史 1923-1994 総合年表」の編集に参加させていただきました。ご高覧いただければ幸いです。



この368号で「日本オルタナ出版史」三部作が完結する記念に、神保町の東京堂ホールでトークショーが開かれます。

日本オルタナ出版史3部作 完結記念 

郡淳一郎×山中剛史×山本貴光×内田明×扉野良人×室賀清徳 トークショー

日時:2014年12月15日(月)19時〜(開場18時30分)

登壇者:郡淳一郎山中剛史山本貴光、内田明、扉野良人室賀清徳

場所:東京堂書店神田神保町店6階 東京堂ホール

参加方法:参加費800円(要予約・ドリンク付き)

*参加方法などの詳細は、会場のウェブサイトに。



さて、以下「です・ます調」から「だ・である調」に文体を変えて、「日本オルタナ出版史 1923-1994 総合年表」に関係する、山本書店・山本武夫のことを。

『アイデア354号「日本オルタナ出版史 1923-1945 ほんとうに美しい本」では年代に幅のある記述しかできなかった、山本武夫の山本書店。今回368号「日本オルタナ精神譜」の年表編集にあたり、せめて創業年だけでも確認できないだろうかと色々探し回ってみた結果、下記の通り昭和9(1934)年創業と見てよいものと判断した。
残念ながら山本武夫の生没年は未詳。

354号88-89頁「山本武夫」の項に曰く「1930年代初頭に山本書店を興し、堀辰雄室生犀星立原道造武者小路実篤らの著作を刊行」という山本書店の山本武夫に触れた、富士川英郎のインタビューがある。
短歌研究社『短歌研究』1978年9月号の特別企画「詩と詩人の世界」に掲載された篠塚純子による富士川インタビューの冒頭「リルケ堀辰雄」の項に、こんな話が出てくる(101-102頁)。

【篠塚】 先生は『マルテの手記』の翻訳を堀辰雄の「四季」に連載なさったのですね。そのお話のために、堀辰雄と初めてお会いになったのは、昭和十年の二月、岩波書店でとか……。
富士川】 今はもうなくなりましたが、木造建てのね。神保町の角に小さい、これも木造の小売店が出ていましたが、その奥へずっと入って行くと、長い木の廊下がありましてね。堀さんはその奥にあった二階の一室で『芥川竜之介全集』(引用者:「竜」ママ)の編集をしていたわけです。そこへ訪ねていった。
【篠塚】 その前に、先生の『マルテの手記』を「四季」に載せたいと、堀辰雄からお話があったわけですね。
富士川】 それにはいきさつがありましてね。東大の独文科の二、三年先輩に山本武夫という出版業をやっている人がいまして、その人が『マルテの手記』を翻訳するなら、自分のところから本として出そうといってくれました。この山本さんは大学の卒業も堀辰雄とほぼ同年代で、彼から出版に関する助言もいろいろ受けている。『立原道造全集』などを出したのも堀辰雄のアドバイスがあったためでしょうね。ところで、当時はリルケもそれほど広くは知られていないし、訳者の私も無名だし、『マルテの手記』を出すにしても前宣伝のために、まず、しかるべき雑誌に連載した方が好都合だというわけで、たまたま、堀辰雄がその頃発刊しようとしていた「四季」に載せてもらうよう、山本さんが堀さんに頼んだらしい。それを堀辰雄が承知してくれて、一度会おうということになりましてね。しかし、最初に行った時は留守だった……。
【篠塚】 二度目にお会いになった……。
富士川】 ええ、岩波へ初めていったら、留守だった。それから、留守で失礼した、何日にはいるから来いという端書をもらいましてね、二度目に出かけていった時に会いました。

そのあたりの状況について、富士川自身が学燈社『国文学 解釈と教材の研究』1977年7月号(堀辰雄特集)に「堀辰雄と「四季」」という記事を書いているのだが、《山本書店は東大独文科出身で、筆者の先輩にあたる山本武夫氏がその頃新しくはじめた出版社であったが、山本氏はまた堀辰雄の古くからの友人で、すでに昭和九年に、『物語の女』という堀の短編集を五百部限定で出版したりしていたのである。》とあるのみで、山本武夫の生没年も探している身に「二、三年先輩」という『短歌研究』の情報は、ありがたい。

富士川は1932年卒業だから、山本が1930年卒業なら小説家として芥川賞候補作『遣唐船』を書いた高木卓(1907-1974)、同じく『おらがいのち』で同賞候補となった木暮亮(1896-1981)や豊田三郎(1907-1959、豊田の遺稿『好きな絵』も同賞候補作)と、同級生だ。1929年卒業なら、卒業年次は堀辰雄(1904-1953)と同じになる。1927年に独文を出た中野重治(1902-1979)よりも後輩だろうか。国文出の舟橋聖一(1904-1976)も近い。
新潮社版の『堀辰雄全集』月報第一号に山本武夫が寄せた「堀辰雄と造本」には「堀辰雄と知りあったのは学生時代からであるが、身近に親しくなったのは『物語の女』や『堀辰雄詩集』を本にするときにたがいに往ったり来たりしたことによると思う」と書かれており、少なくとも山本と堀は学生時代からの知り合いだったようだが、さて、錚々たる同窓生たちのうち、学生時代の山本が堀以外の視界に入っていたかどうか。



堀辰雄の雑誌『四季』(四季社)昭和9年12月号の表4(裏表紙)に、山本書店の全面広告が出ている。上三分の二ほどを前記の『物語の女』(十一月十日発売)が占め、下段に近刊として佐藤春夫管見上田秋成』(十二月上旬発売)とシュアレス著・宮崎嶺雄訳『人間三人』(十一月末発売)が並び、更に既刊の武者小路実篤空海及びその他』が掲げられている。山本書店の所在地は「麹町富士見町一ノ一〇ノ一」だ。
『四季』昭和10年1月号の表3広告は、『物語の女』がそのままで、近刊として『管見上田秋成』、室生犀星『神々のへど』、『三人』(前号では「人間三人」)、既刊として『空海及びその他』が並ぶ。ちなみに、前号では山本書店の「ひまわりマーク」がスミ、他が茶の二色刷りだったが、今回はすべてオレンジ色。
また、小学館武者小路実篤全集』9巻737-738頁に掲載されている、実篤の雑誌『重光』昭和9年5月号の「六号雑記」に、次の記述がある。

今度広告欄に出てゐる通り山本書店から僕の「空海及び其他」と云ふ本を出す。僕の好きな日本人に就て僕のかいたものを集めたものだ。重光にのつた黒住のことなぞも出る。空海、武蔵、尊徳、一休、その他のものを集めた。愛読してくだされば嬉しい。山本書店は新しき村の兄弟で独文を出た山本武夫が今度始めた本屋だ。挿画も三枚つける。装幀は梅原がしくれるはづたのしみにしてゐる。

『四季』の広告で既刊が『空海及びその他』だけであることや、上記実篤の文から判断して、高橋英夫岩波書店『図書』663号に記した「薄命もまた本のさだめ」(「薄命」に「エフェメール」のルビあり)中に記した「山本書店は昭和九年からおよそ十年ぐらいの短い存続期間」という創業年=昭和9(1934)年という記述は、正しいものと思っていいようだ。



『四季』掲載の山本書店広告に戻ろう。
昭和10年2月号では出稿を休み、3月号表3に『神々のへど』メインの広告。下四分の一ほどのスペースに、既刊として『物語の女』と『空海及びその他』、近刊として『三人』と『管見上田秋成』。グレー一色。同じく4月号表3では右三分の二で『三人』、残りのスペースで『神々のへど』、『物語の女』、『空海及びその他』、グレー一色。
昭和10年5月号には出稿が無く、6月号表3に、破調なレイアウトでポウ著・西村孝次訳『ユウレカ』をメインにした広告。グレー一色。既刊リストに『空海及びその他』、『神々のへど』、『物語の女』、『三人』、フォッシュ著・伊奈重誠訳『戦争論』。山本書店の住所が「東京牛込区矢来町七〇番地」に変っている。
前述の山本「堀辰雄と造本」に、「佐藤春夫氏も造本になかなかの神経をつかうお方だが、これは堀君のようには行かないで、やりきれなくなって、製本屋を佐藤さんのお宅へつれて行ってじか交渉をすすめるというようになり、結局、私のところで出すはずであった『管見上田秋成』も、佐藤さんも私も両方で投げてしまって、出なかった」とある。「投げ」たのはこの昭和10年初夏の頃か。
ちなみに犀星『神々のへど』は、CiNiiの書誌には「タイトルは背による」と注記してこの『神々のへど』が採られているが、東北大学附属図書館高柳文庫の本を見る限り、本体も函も背文字が「神々ノへど」になっている。

上に拾った広告中の表記は「神々のへど」で、本の表紙や目次などに見られる表記も「神々のへど」だから、ややこしい。

なお、高柳文庫の本には、犀星からの献辞が書かれている。中野重治が何度か記しているように、高柳と犀星は旧知の仲。



この後しばらく『四季』に山本書店の広告は掲載されず、一年ほど間をおいた昭和11年6月号表3に、リヴィエール著・辻野久憲訳・萩原朔太郎序『ランボオ』メインの広告が出る。既刊にニーチェ著・登張竹風訳『如是説法』、『三人』、ブウジエ著・平岡昇訳『作家の心理』、『ユウレカ』、室生犀星兄いもうと』が並ぶ。スミ一色。
先に記した高橋英夫「薄命もまた本のさだめ」に、「書店主の山本武夫は旧制二高で教わった縁で竹風の随筆や翻訳を出し、武者小路実篤新しき村の会員でもあった」とある通り、竹風『如是説法ツァラトストラ』にはこんな記述がある。

今年の春のことです。二高在職当時の教へ子山本武夫君が、拙宅訪問の序でに、談たまたまニーチェに及び、あの訳稿を至急出版したいが如何、と思ひも寄らぬ膝詰談判です。ニーチェの講義を聞いてくれた人が書肆となつて昔の師匠の本を出版したいと請願むのです。この位うれしいことはありません。

昭和11年8月発行の『四季』初秋号表2には、「山本文庫刊行目録」として、「毎月十種続刊」とある最初の30点が掲載されている。タイトルのみ抜き出しておこう。

  1. 青年文学者への忠言
  2. 散文詩
  3. 地の糧抄
  4. アリサの日記
  5. 青春
  6. ゲーテの言葉
  7. 従軍日記
  8. 謝肉祭
  9. 真珠嬢(モーパッサン
  10. ヴェニス物語
  11. ゾグープ大尉のお茶
  12. 田園詩
  13. 小鳥の英文学
  14. 百花村物語
  15. 愛人への手紙
  16. D・Hロレンスへの手紙
  17. ランボオ詩抄
  18. アムステルダムの水夫
  19. ドニイズ・花売娘
  20. 蜜月・幸福
  21. 雄鶏とアルルカン
  22. ターニヤ
  23. 獅子狩
  24. 恋する人
  25. ポオ論
  26. 夜の歌
  27. エピキユウリの園
  28. 博物誌抄
  29. 千載一過
  30. 病中日記



この後しばらく山本書店の『四季』への広告出稿は無かったのだが、『立原道造全集』全三巻のみの広告が昭和16年1月号(54号)と3月号(55号)の表4に載る。同じ版下を使ったようだ。双方ともスミ一色。山本書店の住所は「東京市淀橋区戸塚町一ノ五〇八」になっている。
その55号の編集後記で堀辰雄は、こんなことを書いている。

立原道造全集第一巻はこの号の出る時分にはもう上梓せられていゐるだらうと思ふ。第二巻の原稿はもう全部印刷所に渡した。第三巻は日記や手紙など未発表のものばかりで、期待に反せないやうなものにしたいと思つてゐるが、これはなかなか大へんな仕事である。日記は三冊とも全部筆写し終り、その一部分(「火山灰」)を本号にも載せたが、手紙はこれから筆写する。故人の手紙を御所持でまだ刊行会宛にお出し下さらない方があれば、小生宛にお送り下さつても結構である。小生が責任を以つて筆写の上御返却いたします。
猶、第三巻上梓後、もし余裕あれば、別巻を出したい。全集に洩れた断簡を集め、写真版などを多く挿んで、故人を私的に彷彿せしめるやうなものを作れれば作りたい。これはごく少部数しか作れさうもないから、全集(A版)を買つて下さつた方々にのみ実費にてお頒ちすることにならう。

昭和16年の4月号72頁にも同じ立原道造全集広告がある。その後山本書店の音沙汰は無いが、堀は『四季』昭和17年6月発行の初夏号編集後記に、全集の件について続きを書いている。

立原道造全集は二冊出たきりで、その儘になつてゐるが、こんどの集は日記と手紙なので筆写に意外に手間どり、去年の暮れに漸つと全部の筆写を終へたのですぐ印刷所に渡しておいたところ、漸く初校が出だした。あんまり分量が多いので、手紙だけ三巻として出し、日記は別冊として出すことにした。夏まへまでには両方とも出したいものだ。

広告の掲載が全く無い(白装束の意図ででもあったろうか)昭和17年9月号「萩原朔太郎追悼号」の翌10月号表4に「東京市麹町区麹町二ノ六」で山本書店の広告。神西清『垂水』と、富士川英郎訳『ホフマンスタアル文藝論集』。スミ一色。同じ版下で12月号72頁にも出稿。
昭和17年12月発行の18年1月号編集後記末尾には「立原道造全集第三巻の「日記と手紙」は二月中には確実に刊行出来るといふ話である」とあり、18年6月発行の7月号編集後記末尾には「二月号に予告しておいて出なかつた立原道造全集第三巻「日記と手紙」もいよいよ出る事になつた」とあるのを最後に、山本書店周辺に触れられることはないまま『四季』は昭和19年6月発行の終刊号を迎える。
小川和佑『立原道造研究』572頁には、立原全集の第三巻が第一・二巻から2年遅れの昭和18年に刊行されたことについて「山本書店主、山本武夫の病気や戦争下の出版事情の悪化などのためであったろうと思われる」と記されているが、刊行が遅れた主たる要因は堀辰雄らの編集作業の遅れであったようだ。
『文藝』昭和32年2月臨時増刊号「堀辰雄読本」に山本が寄せた「いたわりとさびしさ」に、「人に対するやさしさ、ものやわらかさは彼の身についたもののようだが、一方、人を批判する態度もなかなかきびしくて、立原全集のことで、刊行会の若い人々の感情を僕が傷つけたことがあったが、そのとき堀君が僕にくれた長文の手紙は、若い人々の側に立ってかなり強く僕を非難したものだった」というくだりがあるのは、小山正孝堀辰雄全集の月報第四号「思い出」に「立原道造全集の編集の途中で、野村英夫君がひどく気持ちが参ってしまったことがある」と記した件、野村に関する道造日記の記述について、全集後書に「われわれは或事情のためにやむを得ずその一部を削除したことを附け加えて置かねばならない」とされたあたりのことを指すのだろう。