日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

立野信之が見た橋本英吉と徳永直

講談社版『日本現代文学全集』第89巻「伊藤永之介 本庄睦男 森山啓 橋本英吉 集」に付属の「月報94」(1968年7月)に書かれた立野信之「橋本英吉のこと」には、立野と橋本の出会ひの頃のこと、小林多喜二が立野宅にゐたところに特高がやってきて小林と立野が捕まったこと、徳永直から『太陽のない街』を絶版にする件について立野信之と橋本英吉が一緒に相談(報告)をされたこと――が記されてゐる。
月報には、逮捕時のことが、かう書かれてゐる。

當時、私は作家同盟の書記長をして居り、危險が身に迫ってきていたので、いずれは檢擧投獄されるものと覺悟をきめていた。その頃たまたま小林多喜二が北海道から上京してて私の家に泊つていたが、ある朝やつてきた警視廳の特高課員に私と小林は捕まり、警察へ連行された。私の借家の路地を出て表の通りへ一まわりすると、そこが橋本の家の前で、朝の早い橋本は生れたばかりの女兒を抱いて路上にたたずんでいたが、警視廳の特高課員に連行される小林と私の姿を見ると、橋本はサッと顏色を變え、さあらぬ體で家の中へ引込んだ。
それきり私たちは七ヵ月間會わなかつた。その間に橋本も檢擧されたが、微罪(?)ということで起訴保留となり、釋放された。

小林多喜二とともに捕まった時のことを、立野信之は『青春物語』(1962、河出書房新社)中ではもっと長く細かく書いてゐる。『青春物語』では、橋本の家の前を通る際の描写が「月報」とはちょっと違ってゐるので、メモしておく。

中川警部が先に立って歩いた。
すぐ道を右へ曲がると、二軒目が橋本英吉の借家だ。見ると、朝の早い橋本は赤ん坊を抱いて、家の前をブラブラしている。中川はまっすぐに近づいたが、橋本英吉とは気がつかなかったらしく、さっさと通りすぎた。
橋本は、特高刑事に取り囲まれたわたしと小林とを見て、ハッと顔色を変えた。
わたしは橋本に向かって、声をかけるな、知らん顔をしておれ、といった風にかぶりをふった。すると橋本はそれに気づいてか、クルリと向こうむきになった。
わたしたちは橋本の背後を、だまって通り過ぎた。

立野『青春物語』には、昭和三十五年八月の『別冊小説新潮』に書かれた「徳永直――その離婚と破局と死」も収められてゐて、そこで『太陽のない街』絶版の件が「これは一見決断力のように見えるけれども、わたしなど、徳永を人間的に知っている者の眼からすると、臆病とフンギリの悪さから生じた悪あがきにすぎない」と評されてゐる。
徳永が橋本と立野の二人を呼び出して絶版の相談をした時の話の内容は、「月報」と『青春物語』で、さほど変らない。
そして『青春物語』によると「昭和二十八年だった、と思う」頃のこと。

ある日、徳永直は橋本英吉とつれ立って、わたしの家に「一パイ」飲みにやってきた。橋本と徳永は、共同印刷の職工時分からの親友である。
この時、徳永は、たいして酒に酔いもしないのに、日本に革命が明日にも来るようなことを喋って、一人で気焔をあげた。作家同盟時代、刑務所はおろか警察にも留置されたことのない徳永の、どこを押せばそんな音が出るのか、とわたしは怖れあきれて、黙ってお説を拝聴した。
二、三日経って、橋本からハガキがきた。
「こないだはたいへん面白かった。ああいう会を、三人で時々やろう」
わたしは折り返し、ハガキで断った。
「君とだけなら、いつでも結構だが、革命家徳永直先生と一緒では、ご免を蒙りたい」
橋本からは、それっきり何も言ってこなかった。

『青春物語』ではこの後に徳永の葬儀の話が続くんだども、「月報」ではこれが最後のエピソードになってゐて、次のやうに締めくくられてゐる。

ある日、徳永と橋本が連立つて私の家にやつてきた。
徳永は開口一番いつた。
「オレ、戰爭中は官憲に屈したが、こんどは負けない……!」
そしてプロレタリア革命がすぐにでもやつてくるような、軒昂たる口ぶりであつた。
私はへきえきしたが、橋本は例によつてただ默つてきいていた。
橋本英吉はいつも默つている男である。

ちなみに、橋本英吉の人物像については、新日本出版社『日本プロレタリア文学集・32 橋本英吉、タカクラ・テル 集』の松澤信祐による解説が詳しい。そこに引用されてゐる、橋本英吉「『ある線』の話」(『文化評論』1968年5月)からの話を重引。

作家同盟の第五回大会が開かれた。その前に書記長の小林多喜二が地下にもぐったため、立野信之が書記長になったが、これも検挙されたので、僕が臨時に書記長となって大会準備をした。いよいよ当日、(築地)小劇場の幕が上るという時になって、僕は築地署に連行されて、二十九日の拘留を言い渡された。

松澤の解説によると、橋本英吉はこの時の特高警察の取調べに耐えきれず「運動から手を引く」という条件で起訴猶予になり釈放されたのだといふ。そして、『炭鉱』(1955、三一書房)巻末の自筆「略年譜」さ「同年、妻の郷里の伊豆に転居した。プロレタリア文学運動からの逃避であるが、弁解を許してもらえば、両親と妻子四人を抱えて愈々困難の度を加える闘争に耐えられなかったこと、われわれの文学が実際に大衆の生活と結びついていないこと。じっくりと落ちついて物を書きたいからであった」と記したやうに伊豆に引っ込んでゐる。
ちなみに、その時のことを、半沢弘『土着の思想』(1967、紀伊国屋新書)の「橋本英吉小伝」が、かう記してゐる。

当時の作家同盟(ナルプ)系の文学者仲間では、三十代にして見事に禿げ上がってしまった橋本の光頭を、ドイツ共産党首領の名をもじってテールマンと呼んでいたが、山田清三郎は彼の『転向記』の中で「橋本は、彼をたよる家族とともに生きるか、家族をすてて牢獄にゆくか、そのギリギリの瀬戸ぎわにたって、彼は前者をえらんだのである。フラクでも、このテールマンの逃避ばかりは、誰も非難するものはなく、またできもしなかった」と語っている。

さうして伊豆での生活を送った後、『日本現代文学全集89』の「橋本英吉年譜」によると、昭和十一年(一九三六)二月に、「家族とともに上京。世田谷區太子堂に住んだ。」とのことである。以後、昭和二十年四月まで太子堂(=三軒茶屋)、四月から十二月までが横光利一宅と、十二月に伊豆の旧大仁町に移り住むまでが橋本英吉の世田谷時代であるやうだ。