日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

1943東京新聞「鉛活字の最初」にみる徳永直のダイア事跡紹介

徳永直がSamuel Dyerの事跡について初めて公の場に書いたのは、昭和十八年十月十一日付の東京新聞「下燈」欄であるやうだ。
「鉛活字の最初」と題して徳永はかう書いてゐる。

 いま丸|善《ぜん》で再刻《さいこく》頒布《はんぷ》中の英《えい》字本「支|那《な》叢報《そうほう》」に、英《えい》人|宣《せん》教師サミユエル・ダイアが一八三二年、天保三年、マライのペナン島で「流し込《こ》み」による鉛の漢《かん》字|活《くわつ》字を創つた事|情《ぜう》が詳《くは》しくでてゐる。
 日本の印刷史にはまだ紹介されてないやうだが、これが漢字の近代鉛活字の最初であることは疑ひない。この活字はその後三十年間にマラツカ、昭南、廣東、上海を経て長崎へきた。
 ダイアは一八二七年にアジアへ來た當時の東方|宣《せん》教師團の一人だが、殆《ほとん》どその生|涯《がい》を漢《かん》字|活《くわつ》字|創造《そうぞう》に捧げてゐて、この活《くわつ》字で最初に印刷《いんさつ》されたものが「阿片《あへん》速《そく》改文」一八三五年であつた。
 六葉十二頁の小さい册子であるが周知のやうに當時英國は印度産の阿片を旺んに支那へ賣込んでゐて、「速改文」の七年後には「阿片戰爭」によつて上海を侵略さへした。
 宣《せん》教師團など政治|的《てき》一|般《ぱん》的《てき》にみればずゐぶん東方|侵略《しんりゃく》の手先ともなつたが、個人|的《てき》にみればダイアなどの仕事は今日東洋の漢《かん》字|活《くわつ》字に傳統《でんとう》を殘《のこ》してゐて、歴史《れきし》と個《こ》人の複雜《ふくざつ》な關《くわん》係を考へさせられる。

東京新聞も河出書房もよくしたもので、上記コラムの下の段に、近刊として『光をかかぐる人々』の広告を載せてゐる。

東京への空爆が激しさを増し、生きて続編を書き上げることができるかどうか判らなくなってきた、そんな切迫した気持ちが、せめてサミュエル・ダイアの功績に一言触れておきたいと、徳永を駆り立てたのだらう。
昭和十八年から十九年にかけての『印刷雑誌』に、上記コラムへの反応が何か見られないかと印刷図書館と国会図書館を探し回ったことがあるんだども、何も見出せなかった。
印刷史家らに注目されなかったことを、徳永は、どう感じただらうか。
先日やっと『光をかかぐる人々』続編『世界文化』連載分全文の入力・公開にこぎつけ、当時の印刷史家側の心持ちを忖度するだけの気持ちの余裕が、己にも若干出てきた。
当時の印刷史家側でも、それまでに書きためた仕事や暖めてきたテーマが灰になるだけならまだしも、明日の我が身がどうなるかも判らない状態で、やはり自分の研究を書き留めておかうとするのに精一杯、周りを見回す余裕が無かったとしても、無理はない。