日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

大空襲見舞ひに東大図書館の渋川驍を訪ねた上林暁

澁川驍『書庫のキャレル』所収の「戦時下の東京大学図書館」に、東京大空襲の翌日に上林暁が火事見舞いに訪れたエピソードが書かれてゐる。

その翌日、私が夕方近く階段を下りてくると地下の入口で宿直室の場所を尋ねている人があった。聞き覚えのある声だと思って、顔を近づけると、上林暁さんだった。私がここで自炊生活を送っていることを知っているので、火事見舞いをかねて立ち寄ってくれたのにちがいなかった。
――引用者中略――
私たちは食べながら、夢中になって、近況を互いに話し合った。

編註によると、この時のことが上林暁『晩春日記』(桜井書店、1946)191頁に記されてあるといふので、『上林暁全集 五』を借覧。『晩春日記』所収だったらしい「嶺光書房」第三節の末尾にかうあった。

「永濱氏もやられましてね。」と由利氏は附け加へた。
「さうですか。燒けたんですか。」
「書き溜めの原稿の入つた箱だけ提げて、身を以て脱れたんださうです。今寫してゐるのも、その一部なんです。」
「さうですか。」と私は唸るやうな氣持で聞いた。つづいて私は、「さうですか。」と二度繰り返し、「あの名高い麒麟館も燒けたんですかね。」と溜息を洩した。
 私達は、「麒麟館主人」として永濱高風氏を知つてゐた。高風氏の住むといふ街を歩きながら、麒麟館はどのあたりかなと思ひながら、頭を囘らしたこともあつた。さう思つてみると、街の空氣も自ら他と異つて、高風氏の作品の醸し出す雅醇な情緒がそこらにたゆたつてゐるとしか思はれなかつた。その麒麟館も今は燒け失せて無くなつて了つたかと思ふと、文學上の聖地を喪つたやうな寂しさが湧いた。
 誰かにこの出來事を告げたくつて、私の心は鎭まらなかつた。ああ、好い人が居ると思ひ着いたのは、大學圖書館の宿直室に寝起きしてゐる友人佐川君であつた。嶺光書房を出ると、暗く暮れて來た廢墟を厭はず、私は本郷へ足を向けた。會つて、我が事のやうに話してみると、何んとしたことだ、佐川君はもう、私より先にそのことを知つてゐた。

出版社の名も大家の名も友人の名も仮名なんだども、その友人が「S司書」である点は、示唆されてゐる。
戦争末期に筑摩書房へ預けた原稿が辿る運命を軸に書かれたこの短編は、それはそれで面白かったんだども、全集十五巻の随筆「東京に在りて」「現実に即して」「極靜の地獄」などと併読すると、また味はひ深い。
その三作の前に上林暁が書いた随筆に、谷崎潤一郎が「きのふけふ」で安易にブーム的に書かれる歴史小説にクギを刺したことを受けて書かれた「文學と處世」といふのがあって、これは己が徳永直と『光をかかぐる人々』の関係について述べたいことを、うまく書いてゐた。

作者の内面的な精神と、取り扱はれる對象との間に、のつぴきならぬ關係なくして書かれた作品が人を感動させるはずはない。そしてそのやうな關係なくして作品が書かれる場合は、ただそれが處世の目的をのみもつて書かれる時であり、そのやうな目的をもつて書かれた作品が、人を搏つはずがないのは當然である。數多くの歴史小説が現はれながら、案外問題となる作品が少いのはそのためである。

共同印刷の植字工だった徳永直の、日本語活字の歴史との「のっぴきならぬ関係」が、『光をかかぐる人々』を生んだ。
近代文学館に残ってゐた創作メモに大橋左平の名をみつけた際、帝国図書館や帝大図書館、大橋図書館(共同印刷=博文館の創業社長である大橋左平の遺志で創設)等に通い詰めてゐた徳永直は、『光をかかぐる人々』のために、「のっぴきならぬ関係」であるところの“人間大橋左平”を掴まうと試みてゐたんぢゃないべかと思った己だ。