日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

ギタさんにぶちあたる

本日公開分が、徳永直『光をかかぐる人々』続編、『世界文化』連載分の、最後の節になる。
http://d.hatena.ne.jp/HikariwokakaguruHitobito/
末尾は次の通り。

「――記録がのこつていないけれど、昌造翁が、門人を上海にやつたというのは、ほんとか知れませんね」
 ある日、芝白金三光町に、平野義太郎氏をたずねてゆくと、そういつた。おだやかなこの學者は、昌造の門人で、その後繼者であつた平野富二の孫にあたるのである。
「その頃になると、長崎と上海の往來は、いま記録にのこつてるよりも、何倍もひんぱんだつたらしいですからね」
 卓のうえには、私のために、祖父富二翁ののこした當時の日記や、短册や、いろんなものがひろげてある。大福帳型に、こくめいにしるされた筆文字をめくつてみても、そこから昌造の門人のうち、だれが、いつ、どういう風にして、美華書館へちかずいていつたかはわからない。わからなけれど、つよい筆勢の、ところどころ片假名まじりの日記をみていると、古風なうちに、つよいハイカラさがあふれていて、當時の長崎と上海が、まじかにうかんでくる氣がする。――
 一八六六年までは、まだ鎖國であつた。しかも、記録にのこらぬような形で、上海、長崎の往來はひんぱんであつた。表むき、裏むきの形でも、藩を背景にした武士たちか、それでなければ、買われた女性、船の勞働者として名もない人々が、往來していたが、昌造はそのどつちでもないのだつた。彼は徳川期を通じて由緒ある「長崎通詞」の家柄でありながら、身分的には、足軽武士にも呼びすてられる「町方小者」に過ぎない。さらに、同じ、安政開港に奔走した同僚たち、たとえば森山多吉郎は外國奉行支配調役に、堀達之助は開成所教授に出世しているときに、彼は「揚り屋入り」をしなければならなかつたような事情が、自分みずからは、なかなか上海密航など、思いもよらぬ環境におかれて、ひとり身をもだえていたのであろう。

ここで己は、平野富二を詮索すると「ギタさんにぶちあたるぞ」「戦前なら特高もんだ」と牧治三郎が述べたといふ、片塩二朗氏の文章を思ひ出す。
牧治三郎は、上記のところまで来て唐突に終はってしまった続編を読んでゐて、「ギタさんにぶちあた」ったために途絶したと考へたのではないか。
やはり牧が、矢作勝美氏に続編の存在を教へたのではあるまいか。
と想像してみる己。
真相は判らない。
ちなみに、プランゲ文庫の資料を見る限り、検閲の痕跡はない。
徳永は“上巻”末尾の「作者言」で平野義太郎への謝辞も述べてゐるから、上記のごく簡単な内容だけでなく、ここに続く一節分くらいは書かれるだけの取材をしてゐただらう。
当時、印刷業の体験が豊富でかつプロレタリア作家であることからの転向声明経験を持つ徳永直といふ特殊な経歴の持ち主にしか出来ない取材を平野義太郎に為し得ただらうと思ふと、つくづく、公表済み続編の続きとされる原稿の行方を知りたく思ふ。