日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

『大日本古文書』に見える蘭通詞本木昌造の仕事

すっかり忘れかかってゐる、本木伝に追加すべきエピソードの件。
和蘭通詞としての本木昌造の仕事が『大日本古文書 幕末外国関係文書』に見られることを、徳永直が『光をかかぐる人々』に記してゐる。同書第八巻・第九巻に、「安政の開国」に絡む昌造の働きを見た徳永は、しかし、大正年間に既に発行されてゐた続巻を見なかった模様。
オランダ通詞としての本木昌造の仕事は、『大日本古文書 幕末外国関係文書』に、予想外に多く残ってゐる。
例へば第十二巻に記された安政二年七月の和蘭別段風説書の翻訳を、本木昌造と品川藤兵衞が担当してゐるんだども、以後、安政四年(巳年)二月初めまで、本木と品川は「書翰」や「和蘭風説書」を含む甲比丹キュルチユス関連の翻訳を担当し続けてゐる*1。そして『大日本古文書 幕末外国関係文書』第十五巻、安政四年二月朔日に書かれた和蘭通詞上申書(キュルチユスが先に申し出てゐたといふシーボルト渡来禁止赦免の件の催促)と二月三日に翻訳されたキュルチユス書翰を最後に、本木昌造は阿蘭陀通詞としての姿を『大日本古文書 幕末外国関係文書』の記録に残さなくなる。
徳永が『大日本古文書 幕末外国関係文書』の続巻をきちんと見てゐれば、安政二年の入牢説は完全に否定できただらうし、また、入牢が安政四年であった可能性にも気づき得ただらう。
残念ながら、昭和初年から十年代に論戦を張った入牢肯定派否定派共に、「本木昌造は入牢したか否か」ではなく「本木昌造安政二年に入牢したか否か」を問ひ、確たる結論を得ることができないでゐたのだった。
以後半世紀を経て、本木昌造の入牢が安政巳四年であったことを長崎の研究者が各種記録から明らかにしたといふ話*2は、県立長崎図書館だより「いしだたみ」1992年3月号に紹介されてゐる。
印刷雑誌の本木伝において安政ミ年を安政ニ年と記した福地櫻痴の呪ひは、驚くほど長期間、我々の視点を縛り続けてきたのだった。
なほ、現在のところ己は、本木昌造が蘭通詞として安政年間の長崎で為した仕事について、上記のように具体的に語った本木伝の存在を、寡聞にして知らない。



2019年5月27日追記:
2019年3月末にYahooジオシティーズがサービス終了したことにより、夢迷子羊氏による「長崎夢現塾」ホームページに掲載されていた「いしだたみ」1992年3月号の記事「本木昌造の入牢の時期について」は、オリジナルURIでは辿れなくなってしまった。幸い、インターネットアーカイブに保存されているものを閲覧できる。
https://web.archive.org/web/20181105233350/http://www.geocities.jp/kohithugi/history-04.htm

*1:片桐一男『阿蘭陀通詞の研究』(asin:4642031154)には風説書の翻訳が年番通詞の職務とあるんだども、安政二年のみの年番小通詞である品川と、年番通詞になってゐない本木とが安政二年から四年二月始めまで翻訳担当し続けてゐる安政年間に限っては、再考されて良い。ちなみに、品川藤兵衞が安政二年のみの年番小通詞だといふ件は、『阿蘭陀通詞の研究』第四章と、その基になった片桐一男・服部匡延校訂『年番阿蘭陀通詞史料』による。

*2:片塩二朗氏が『日本の近代活字』(asin:494761370X)で紹介なさってゐる。