日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

近代書誌・近代画像データベースで公開されている、主に堺市所蔵・鞍馬寺所蔵、与謝野晶子自筆資料等の「組方指定」等について(2018年1月作成の故twitterモーメント))

twitterがXになり、「モーメント(Moments)」機能でまとめたメモの閲覧もできなくなってしまったのが自分にとって想像以上に不便である――twilogのキーワード検索では「流れ」や「塊」がうまく拾い出せなかったりする――ので、標記モーメント(https://twitter.com/i/moments/948830781601849344)を2018年1月の吹囀ツイート履歴から再構成してみました:


そういえば、2008年に「近代書誌・近代画像データベース」で「与謝野晶子自筆原稿」として公開されることになった『新新訳源氏物語http://school.nijl.ac.jp/kindai/SKIY/SKIY-00001.html#1 資料群、自館所蔵資料じゃないから国文研としてCC-BY公開「じゃない」ので所蔵元に確認せよという扱いになることは理解するんだけど、…
https://x.com/uakira2/status/948709064833290240

…新新訳源氏「与謝野晶子自筆原稿」を所蔵する堺市側の告知 http://city.sakai.lg.jp/kanko/bunka/yosanoakiko/picture.html には「(国文研との)連携によりデジタル画像化し、同館のウェブサイトにおいて公開しています」「データベースの利用にあたっては、利用規定を遵守していただき、違法な利用を行わないようお願いいたします。」…
https://x.com/uakira2/status/948710001043898370

…「公開する画像は、『新新訳源氏物語』や『蜻蛉日記』の現代語訳の自筆原稿で、原稿には推敲の跡が多数留められています。古典文学を現代によみがえらせてゆく与謝野晶子の創作の現場をご覧いただき、晶子の古典翻訳についての研究・理解を深めていただければ幸いです。」とあるので、…
https://x.com/uakira2/status/948710253188689920


この新新訳源氏「桐壺」他の「与謝野晶子自筆原稿」を見ると、例えば2010年に当時の「堺市立文化館 与謝野晶子文芸館」で開催された「与謝野晶子 生涯と作品」https://sakai-bunshin.com/event_shousai_tenji.jsp?pageNo=16&id=449837 で展示されたらしい「自筆原稿『故郷と父母』」のような、入稿原稿に見られる筈の朱筆類が全く見られない他、
https://x.com/uakira2/status/948713009941069825

入稿原稿は(おそらく草稿を元に)浄書された状態で入稿されていると見えるのに対して、堺市による(『新新訳源氏物語』や『蜻蛉日記』の現代語訳の)「与謝野晶子自筆原稿のデジタル画像公開」告知文 http://city.sakai.lg.jp/kanko/bunka/yosanoakiko/picture.html にも「原稿には推敲の跡が多数留められています」と記されている通り、
https://x.com/uakira2/status/948713782330646528

原稿用紙のマス目に書かれた部分に見せ消ちの跡や挿入の跡、更に欄外余白への大量の書き込みなど、内容的には「草稿」であることが色濃く示されている。この与謝野晶子の自筆資料を「画像データベース化して公開する」仕事に携わった方のブログ記事で、ご自身の地の文では「草稿」と呼ばれ、
https://x.com/uakira2/status/948714783540355072

相手側の呼称を用いる局面で、相手側呼称の「与謝野晶子自筆原稿」が用いられる、http://genjiito.sblo.jp/article/178934926.html そうならざるを得ないところが感慨深い。
https://x.com/uakira2/status/948715244867567617

市の告知・広報のように、広く一般に向けて情報を発信する局面では、何かある作品のために作家自身によって書かれたモノのことは「原稿」と呼ばなければ受け手に伝わらない、そういう信仰・信憑があるということなのだろう。
https://x.com/uakira2/status/948716140477362177

「草稿」では何のことだか理解されないという判断なのか、ありがたみが薄れるというような判断なのか、そのあたり、実際のことろ、どうなのだろう。また、本人によって直接手書きされたものの場合、「自筆資料」では「原稿」や「草稿」とは違う何かを指すことになってしまうのだろうか。
https://x.com/uakira2/status/948716644636897282

せっかくなので国文研の近代書誌・近代画像データベースの「草稿」を検索してみたところ。大阪大学附属図書館小野文庫所蔵の「忍頂寺務自筆草稿」という資料に行き当たった。7点ほどの小文が「忍頂寺務自筆草稿」という1つの資料に纏められているのだけれど、http://school.nijl.ac.jp/kindai/OSON/OSON-00265.html#1
https://x.com/uakira2/status/948719075391291392

このうちの忍頂寺宝山人「伊勢音頭の曲名」http://school.nijl.ac.jp/kindai/OSON/OSON-00265.html#59 には全紙にわたって組方指定の書き込み(表題四号活字、著者名五号、本文9ポ、引用文と割注が六号)があり、これだけは「草稿」ではなく「入稿原稿」であるらしいことが見て取れる。
https://x.com/uakira2/status/948719841854177280


ともあれ。国文研で公開されている、鞍馬寺所蔵の与謝野晶子自筆資料のうちの1つ、「あとがき」http://dbrec.nijl.ac.jp/BADB_KURM-00033 について。近代書誌・近代画像データベースの「蔵書印・書込等」の欄には【1枚目余白に『与謝野晶子歌集』と赤ペンで書き入れあり】とだけ書かれているのだけれども。
https://x.com/uakira2/status/948734020094902272

画像 http://school.nijl.ac.jp/kindai/KURM/KURM-00033.html#1 を見る限り、正確には【1枚目右余白に『文庫「与謝野晶子歌集」』と赤ペンで書き入れあり】かつ【1枚目上余白に『(改丁)/ _8ポ43×15_ / _柱_あとがき_』と赤ペンで組方指定の書き入れ】更に【表題「あとがき」の箇所に『12ポ、二分アキ、三行』】と赤ペン以下同文。
https://x.com/uakira2/status/948735879379480576

この欄外朱書きに、正確には『文庫「与謝野晶子歌集」』と記されている通り、これは昭和18年岩波書店から出版された岩波文庫版『与謝野晶子歌集』http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1128145/152 のことと考えて、内容的にも間違い無いだろう。
https://x.com/uakira2/status/948740206219337729

鞍馬寺所蔵【「岩波文庫与謝野晶子歌集』あとがき」入稿原稿】の2枚目に「書肆の編輯部の長谷川氏」と書かれ、http://school.nijl.ac.jp/kindai/KURM/KURM-00033.html#2 刊本では「長谷川覚氏」http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1128145/153 となっている、当時岩波文庫編集者で後に角川文庫創刊スタッフとなる長谷川氏が、この組方指定の書き入れ主か。
https://x.com/uakira2/status/948741570727067648

先ほど記した通り、表題「あとがき」は刊本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1128145/152 でも組方指示通り12ポ二分アキ三行取りで刷られているが、天に配置予定だった「あとがき」の柱は無くされ、また何より「あとがき」本文が1頁8ポ43字詰め15行から、9ポ37字詰め(ベタ組)×11行(9ポ全角アキ)に変更されている。


https://x.com/uakira2/status/948743258946981888

これはおそらく、ゲラ刷りを元に細かな校正を入れる際に、組体裁まで変更したもの、ということになるのだろう。
https://x.com/uakira2/status/948743553441673216

与謝野晶子歌集』担当編集者の長谷川覚が岩波文庫編集者から角川文庫編集者へ転身した、という話は『岩波書店八十年』https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=14340&query=&class=&d=all&page=108 や(漱石全集の編纂過程で参照された)小宮豊隆日記 http://www008.upp.so-net.ne.jp/hybiblio/11_00.htm、そしてNDLリサーチナビ「本の万華鏡」https://rnavi.ndl.go.jp/kaleido/entry/post-126.php による。
https://x.com/uakira2/status/948745049717665792

近代書誌・近代画像データベースで公開されている鞍馬寺資料に、「記載本不明/原稿用紙(印刷は緑)/文末に「一九五六年師走」と記載あり」と補記されている、石井柏亭の「窓から見た風景」という資料がある。文字サイズや字詰め・行数等の指定は無いが、
https://x.com/uakira2/status/948819646441861120

…原稿用紙1枚目 http://school.nijl.ac.jp/kindai/KURM/KURM-00036.html#1 右側余白に「口絵下一段に組む」という組方指定が赤ペン書きされているから、これも入稿原稿なのだろう。問題は、「記載本不明」とされている通り国会図書館サーチ等で情報が引っかからない点なのだけれど、美術書院1957刊『石井柏亭』や、
https://x.com/uakira2/status/948820365358243841

中央公論美術出版1971刊『柏亭自伝』など *ではない* と、明確に確認されていているのだろうか。機会があったら念のためチェックしておきたい。
https://x.com/uakira2/status/948820773849907205

同じく鞍馬寺所蔵資料の、与謝野晶子「秋山抄」自筆原稿。「記載本不明/自筆原稿(神楽坂山田製の原稿用紙)」の補記あり。初出の可能性がある刊本が出現した場合、原稿用紙1枚目 http://school.nijl.ac.jp/kindai/KURM/KURM-00038.html#1 上部余白に朱筆書きされている「一頁より三頁迄に組む」という注意書きや、
https://x.com/uakira2/status/948822198210342912

原稿 http://school.nijl.ac.jp/kindai/KURM/KURM-00038.html#1 各所に黒ペン(または鉛筆)で記されている「4」(表題:四号活字)「5」(著者名:五号)「_9_」(本文9ポ)「_6_」(添え書き:六号)という組方指示の書きつけがあること、
https://x.com/uakira2/status/948823521739792386

更に原稿1枚目の左上隅に「5」、2枚目「6」、3枚目「7」http://school.nijl.ac.jp/kindai/KURM/KURM-00038.html#3 のゴム印があるのでひょっとすると掲載時には「一頁から三頁」ではなく5頁から7頁に変更されているかもしれないこと、などが判断材料になるだろう。(近代書誌・近代画像データベースの登録情報に諸々追記されたい。)
https://x.com/uakira2/status/948824267918946304



以上は「入稿原稿の「組方指定」または「組版指定」の歴史を眺める」(2018-01-06)からリンクしていたモーメントを元ツイート履歴から再構成したものです。

横浜近代文学館Web版夏目漱石デジタル文学館でウェブ資源化された「入稿原稿」に見られる「組方指定」「文選工署名」等のこと(2018年1月作成の故twitterモーメント)

twitterがXになり、「モーメント(Moments)」機能でまとめたメモの閲覧もできなくなってしまったのが自分にとって想像以上に不便である――twilogのキーワード検索では「流れ」や「塊」がうまく拾い出せなかったりする――ので、標記モーメント(https://twitter.com/i/moments/948548446096523265)を2018年1月の吹囀ツイート履歴から再構成してみました:




…各原稿用紙の端に記される文選工の署名であることに、気がついた。大倉書店から出版された漱石『文学論』初版は秀英舎が印刷している http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871770/356 けれど、ハンコじゃなくて筆でサイン。やる気と時間さえあれば、文選工毎の巧拙を確認できる資料セットというわけだ。
https://x.com/uakira2/status/948511795249012736

同じくWeb版夏目漱石デジタル文学館 http://kanabun.or.jp/souseki/list.html の『文学評論』原稿、これも初出が春陽堂の単行本でよいのだとすると、漱石山房原稿用紙の右下隅に見られる「松原」「佐藤」等の墨書は(築地活版の http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871768/319)文選工の署名ということになる。
https://x.com/uakira2/status/948515158468407297

『文学評論』原稿の文選工署名には、達筆すぎて読めないもの(例えば1~9コマ)や、109コマあたりのように「矢」一文字まで略しているものなどもあるが、形が同じと思われるものを同一署名と扱えば「担当者の区別」は可能だろう。
https://x.com/uakira2/status/948516052555636736

…と思ったけれど、甚だしいのは「ま」「み」など、おそらく他の箇所で「松×」「ミ×」「み×」などと署名しているのではないかと思われる者の「ひらがな一文字署名」があったりするので、担当者の同定は困難かもしれない。
https://x.com/uakira2/status/948525193789456385


初出刊本であろう、春陽堂版『文学評論』の当該箇所 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871768/130 及びその周辺には、「嘗」字も、〈「嘗」の〈己〉を削って天地を縮めたような文字〉も、出現していないように見える。

https://x.com/uakira2/status/948525193789456385

この、Web夏目漱石デジタル文学館『文学評論』原稿4コマ目の文選を担当した「ミ×」の文選箇所を丹念に見ていけば、あるいは「嘗」か〈「嘗」の〈己〉を削って天地を縮めたような文字〉が出現するのだろうか。はたまた、文選→植字→校正と流れていく後工程のどこかの段階で捺された何かの標だろうか。
https://x.com/uakira2/status/948527931344568320

Web夏目漱石デジタル文学館の「下宿」(「永日小品」)は、滝田貞治旧蔵品(鹵山文庫の蔵書印 http://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/G0038791ZSI_49454)で、「表紙、帙、木函の題字はいずれも漱石の高弟・小宮豊隆の揮毫」だというのだけれど。その箱書きに「漱石先生自筆原稿」とあるとはいえ、である。…
https://x.com/uakira2/status/948531266508406784

明治42年頃の他の「入稿原稿」には見られるような、組方指示や文選工署名などの痕跡が全く見られないのはどういうことだろう。実は小宮の箱書きは「漱石山房原稿用紙に記された漱石先生の筆跡に間違いない」ことを保証する意味合いしか無く、本資料の内容的な位置づけは「草稿」ではないのだろうか。
https://x.com/uakira2/status/948532135261958144

…例えば、翌年の(同じ朝日新聞連載である、Web夏目漱石デジタル文学館所蔵)「思ひ出す事など」の「原稿」には、漱石山房原稿用紙の天に「七」という朱筆跡があり、これは早稲田古典籍DBの徳田秋声「ゆく雲」にも似通った朱筆跡が認められる形態。
https://x.com/uakira2/status/948532947128172547


実際に現物を見てみないと何とも言えないけれど、#ndldigital コレクションの画像を使って『極北日本』序文 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932896/7 版面に2対3.75の赤枠線と2対3.7の青枠点線を当てはめてみると、2対3.7の方が実際の版面に近いようだ。
https://x.com/uakira2/status/948541541152260096

この入稿原稿を見ると「序」に三号活字使用、本文に四号活字使用の組方指定が朱書きされている通り、本文は(築地活版の後期型)四号明朝活字。『極北日本』表紙画像 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932896/1 のスケールを見る限り、版面の寸法は * 概ね * 指定に合っているとは思われる。
https://x.com/uakira2/status/948542671341015040

訂正。字数行数の指定は「十九字ツメ七行」。実際の印刷物も、そうなっている。
https://x.com/uakira2/status/948545642317545472

で、この組方指定をした者(と指定を受けた植字・印刷者)にとって、「四号活字で十九字ツメ/タテ三寸七分五厘」が「四号活字の四分アキ組で一行十九字」、「四号活字で七行/ヨコ二寸」が「四号活字の行間全角アキ」の意と了解されていたのだろう。
https://x.com/uakira2/status/948545769774096384

版面の寸法を「厘」まで記したケースは珍しいように思うのだけれど(今後観察量が増えるにつれて再考されるかも)、『復讐するは我にあり』の組方指定 http://d.hatena.ne.jp/uakira/20141004 のように、一見緻密な指定の本意は、合理的な組版を壊す意図は無いものと共通了解されていたと考えていいのだろう。
https://x.com/uakira2/status/948547071224655872

以上の他、2018年1月3日現在、神奈川近代文学館のWeb版夏目漱石デジタル文学館で公開されている「草稿」「自筆原稿」の類に、「入稿原稿」は含まれていないようだ。
https://x.com/uakira2/status/948548084862132225



以上は「入稿原稿の「組方指定」または「組版指定」の歴史を眺める」(2018-01-06)からリンクしていたモーメントを元ツイート履歴から再構成したものです。

主に早稲田古典籍DBでウェブ資源化された「入稿原稿」と、そこに見られる「組方指定」「文選工署名」「媒体スタンプ」等のこと(2018年1月作成の故twitterモーメント)

twitterがXになり、「モーメント(Moments)」機能でまとめたメモの閲覧もできなくなってしまったのが自分にとって想像以上に不便である――twilogのキーワード検索では「流れ」や「塊」がうまく拾い出せなかったりする――ので、標記モーメント(https://twitter.com/i/moments/948506223137112070)を20217年12月の吹囀ツイート履歴から再構成してみました:




〈 『独歩遺文』所収「神と我」原稿〉https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko14/bunko14_a0036/bunko14_a0036_p0001.jpg の朱書「4」は四号活字、「6」は六号活字、無印の本文は五号活字ということだろう。段落冒頭字下げが全て記号(?)で示されていて、明治29年に『独歩遺文』の編者が「段落字下げ記号」を使っていたことが判る。
https://twitter.com/uakira2/status/941585462996516870

大西祝歌稿」http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/nu06/nu06_09206/nu06_09206_b025/nu06_09206_b025_p0001.jpg はDBで「草稿」と記されている http://wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/nu06/nu06_09206_b025/index.html けれど、これは編集者の「割付」が朱で書き込まれた「入稿原稿」http://d.hatena.ne.jp/uakira/20171103 ではないだろうか。
https://x.com/uakira2/status/941586932089348096

相馬御風「びろうな話」もDBでは草稿 http://wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he10/he10_07366/index.html だけど全ての原稿用紙に「苦楽3月号」の〈媒体スタンプ〉が押印され一枚目に「割付」の書き込みが有るので「入稿原稿」と呼びたい。
(「本文8ポ〓〓15字26行4段組6頁」の〓箇所が読めない…)

https://x.com/uakira2/status/941627458712776704

いま突然読めた。これ「本文8ポルビナシ15字26行4段組6頁」だな!

https://x.com/uakira2/status/941680997585711104

ノートルダム清心女子大学附属図書館の「坪田譲治コレクション」http://lib.ndsu.ac.jp/collection/tsubota.php にある【草稿「笑顔のお地蔵さま」】も、〈媒体スタンプ〉ではないけれども「苦楽7月号」の表記と「割付」の朱書きがあるので、「草稿」ではなく「入稿原稿」と呼んで欲しい。
https://x.com/uakira2/status/941632657711972352

早稲田古典籍の坪田譲治「花とさかなと鳥」http://wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he24/he24_04930/index.html がDBで書写年不明という扱いだけれど、「共同通信社原稿用紙/朱・藍書入あり」の内容として「特信新年原稿」と記されている入稿原稿なのだから、掲載年の前年末に「書写」されたと見ていいのでは?

https://x.com/uakira2/status/941633867819106304

正宗白鳥「乾いた心」が『太陽』大正6年第1号原稿と注記されていて http://wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he14/he14_08052/index.html、かつ書写年不明扱いということは、入稿直前まで原稿に手が入っていたとは限らない、だから書写年不明とする、そういう考え方ということか?

https://x.com/uakira2/status/941635290883428352

さて、山下浩 @sousekitokomiya『本文の生態学』を読んでから http://d.hatena.ne.jp/uakira/20140914 ずっと気にしていた「文選工の技量を確認できるような入稿原稿」が早稲田古典籍DBで見つかった。吉田弦二郎「国法の罠」http://wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he08/he08_04517/index.html。超特急で対応した「神」「櫻」「馬」らの技量や如何に?!

https://x.com/uakira2/status/941640734410543104

有島武郎「再び本間久雄氏に」の書写年が1920とされているのは、『早稲田文学大正9年6月号所載原稿だということ以外に、例えば日記などから(原稿が)書かれたのが1920年なのが確実だというようなことだろうか。
(割付、「仮丁/五号/二段/二十一行」?)
(「仮丁」って?)

https://x.com/uakira2/status/941642827657748480

三品藺渓「山桜」http://wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko14/bunko14_a0197/index.html が東京朝日新聞に掲載されたのは、いつだったのだろう。書写年は掲載年と同じにしていいんじゃないだろうか。
(総ルビ時代の原稿整理、大変だよなぁ…)

https://x.com/uakira2/status/941645218591338496

市島春城「春城筆語」の「一部朱書」http://wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i05/i05_01904/index.html早稲田大学出版部から出版される http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177503/4 際に編集者が書き込んだ〈かなり丁寧な書き方の〉「割付」と思われるのだけれど、編集者が誰であるか、日記などから判ったりしないのだろうか。




https://x.com/uakira2/status/941650240058269697

諸家原稿断簡六種 http://wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko14/bunko14_a0186/index.html の内容注記、「朱・墨書入あり」だけでなく、正宗白鳥「肉親」には【新潮】の、小川未明「越後の冬」には【新小説本欄】の、小山内薫(表題未詳)にも恐らく【新小説本欄】の〈媒体スタンプ〉(←呼称検討中)押印あり――と注記される世の中にしたい。
https://x.com/uakira2/status/941652670296735744

宇垣一成「新しき年に処する吾人の覚悟」http://wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/nu06/nu06_08490_1802/index.html は、『偕行社記事』大正12年1月号用の原稿を(編集者に)入稿するのにあたって、(おそらく草稿から)「カーボン複写」によって浄書原稿を2部作成し、入稿直前の校訂を浄書原稿に加えたものの、著者側控えということになるようだ。
https://x.com/uakira2/status/941656814059274240

水野葉舟「女の群」http://wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko14/bunko14_a0148/index.html 冒頭の「日曜付録」スタンプも、本作が何らかの新聞の日曜版付録として印刷に回される際に押された〈媒体スタンプ〉の一種と思われるのだけれど、掲載紙は何で、いつのことだったのだろう。
https://x.com/uakira2/status/941654739783004160

坪内逍遥「新修「ハムレット」序」http://wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/nu06/nu06_09304_a025/index.html も草稿じゃなくて入稿原稿。「割付」を助ける活字サイズのスタンプが作られ押されてあるにも関わらず、ぜんぶ取り消し線で消しちゃった上で欄外に「8ポ十二行」。「タテ三寸八分/ヨコ二寸五分/のうちに/組む」(という版面の指定)。

https://x.com/uakira2/status/941656814059274240

そうか、島村抱月文稿三種 http://wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko14/bunko14_a0118/index.html の「墨書」は、後年の秀英舎が「(名前)一文字のハンコ」で文選工の責を示したように、これ、文選工のサインか!!
(「くま」さんとか「吉川」さんとか…)
(「日曜付録」としての初出紙は何だろう???)
https://x.com/uakira2/status/941665965057511424

久米邦武「南洋群島の交通を論ず」http://wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/tsu01/tsu01_03987/index.html 入稿原稿の右上隅に記された編集者の朱書「一寸二分四分」は、何の指示書きなのだろう。掲載誌を見れば分かるだろうか。また「東京榛原製原稿用紙」(罫紙)http://haibara-shop.jp/?pid=31598145 という類のDB注記がこれに限って欠けているのは何故?

https://x.com/uakira2/status/941765374202101760

山田美妙「武者魂 : 戦国時代 [草稿断簡] 」http://wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko14/bunko14_a0049/index.html の余白に大書されている「墨書」(←DB注記されてない)も(東京)国文社の http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/888374/75 文選工の名を記したものと考えて良いだろう。
https://x.com/uakira2/status/941768788147441664

「原稿」の語を含まない「草稿」の検索を始めてみたら、まず山田美妙「滑稽妙な術」http://wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he14/he14_04407/index.html に行き当たった。これは大学館 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/886394/4 の編集者が記した割付か、はたまた微妙によるものか。何れにせよ「入稿原稿」である。


https://x.com/uakira2/status/942011570627809280

(←「微妙」じゃなくて「美妙」)
はしがきの朱囲いは囲み罫の指示で、本文(第一ページ)上部に朱線が引かれているのは、本文の上部に罫線を引く指示、ということになるようだ。章番号は「4ゴチ」(四号ゴシック)。著者名は四号(明朝)。四六判、本文十二行三十七字詰。


https://x.com/uakira2/status/942012555001597954

早稲田古典籍DBを斜め見した限り、山田美妙の「入稿原稿」には罫紙(原稿用紙)を使ったものと無地の紙を使ったものの二種類があるようなのだけれど、この用紙の違いについて選択の意味の有無を記すような先行研究はあるのだろうか。CiNiiでは見つからなかった(←たぶん鍵語の選択が悪い)……
https://x.com/uakira2/status/942014192717926400

大西祝歌稿」http://wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/nu06/nu06_09206_b025/index.html の「一部朱書」が(一部読めてないけど)とても面白い。「歌集の部は一枚だけ見本として/十四行 と 十六行/とにくみ試みに〓〓(十四行〓〓あまりに行間/あき過ぎるやうに見ゆ/れば)」と、五号四分アキで行間全角のもの(十四行)と…

https://x.com/uakira2/status/942171018340155393

…行間二分四分のもの(十六行)を作って比べてみた結1頁16行とした模様。「歌集」は割付通り二号、「明治十七年前の歌ども」も同じく四号活字で組まれているけれども「和歌」が二号ではなく四号になっているのは、割付指示の見間違えか、ゲラを見て変更したものか、さて。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/752757/352

https://x.com/uakira2/status/942171988784685056

山崎紫紅〈『歌舞伎物語』のこと : [草稿] 〉http://wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko14/bunko14_a0188_0018/index.html に「一部朱書」の注記がないけど、余白の朱書数字は各々の初出誌の掲載頁を示すもので6コマの〈改行〉記号も掲載誌において頁が改まる箇所を示した内容、つまり「入稿原稿」なんじゃないだろうか。初出は不明のままなんだろうか。
https://x.com/uakira2/status/942176011147292672

徳田秋声「ゆく雲」http://wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko14/bunko14_a0030/index.html の「朱書入」には、第一ページ右上「カット」指示の他、下部に新聞連載ならではの記述があるような気がする。掲載面・段に関係するのではないかと思うが、この「入稿原稿」と突合せてみないとよく分からない。なお、掲載誌は「三六」ではなく『二六新報』。

https://x.com/uakira2/status/942180927760842752



以上は「入稿原稿の「組方指定」または「組版指定」の歴史を眺める」(2018-01-06)からリンクしていたモーメントを元ツイート履歴から再構成したものです。

『聚珍録』第一篇の図1-93の典拠が国会図書館所蔵資料で間違いなかった(現時点の表題は「[諸神御影]」)と判った大晦日

私の記憶が確かならば、4年ぶりに「府川充男撰輯『聚珍録』(三省堂、2005)愛読者Wiki(暫定版)」の進捗に関する話題。

2022年1月1日付の「『聚珍録』第一篇に出てくる伴源平『魚名づくし半口合』が伴源平『浪速みやげ』中の一項目だったと判った正月」に記した通り、『聚珍録』で「国会図書館所蔵」とされているものの中に、単にデジタルコレクションで見つからないだけでなく、そもそも国立国会図書館サーチで見つからない資料が愛読者Wiki(暫定版)」の中に、まだ幾つも残っています。

今回もbitbucketのフリースペース維持のために幽霊の手がかりを探っていく中で、ある資料の尻尾をつかむことができました。

『聚珍録』第一篇144ページの図1-93について、137ページの解説では「長谷川角行を教祖とする不二教に発し宍野半の許で独立した神道教団扶桑教(独立当時は何故か自ら「扶桑」ではなく「枎桑」と表記していたようだ)の神札一一三六より」とあり、364ページの註1136には「扶桑教の神札」「宅間命郷、明治十(一八七七)年、国立国会図書館所蔵」とあるわけなのですが。

全文検索が可能になったことで、キーワード「宅間命郷」で2つの資料が見つかりました。

1つめが今回の本題である「扶桑教の神札」に該当する資料(題簽に「諸神御影」とあるもの https://dl.ndl.go.jp/pid/815466/1/3?keyword=%22%E5%AE%85%E9%96%93%E5%91%BD%E9%83%B7%22)。そしてもう1つが、当該資料の解題『国立国会図書館所蔵明治期刊行図書目録 第1巻』221ページ(https://dl.ndl.go.jp/pid/12281898/1/114?page=right&keyword=%22%E5%AE%85%E9%96%93%E5%91%BD%E9%83%B7%22)。

今回ようやく見つけることができた図1-93-1相当の画像が https://dl.ndl.go.jp/pid/815466/1/3 の右半分を90度回転させたものであるのに対して、左半分の隅に小さく「東京府浅草田町二丁目一番地 書画出版人 宅間命郷 價八厘」と書かれているのでした。

2025年12月31日時点のNDL書誌は表題こそ「[諸神御影]」であるものの出版者が「扶桑教会等」ですから、ちょっと頓智を利かせて「扶桑教」で調べてみていれば全文検索実装前であっても見つけ出すことが出来ていた筈だよなと己の近デジ操作技術の未熟さを改めて思い知らされる年末となりました。

ともあれ、己の未熟は棚上げし、年明けには書誌の追加を提案しておかねば――表題は「[諸神御影]」に「[扶桑教の神札]」を追加してもらうことはできるかどうか、また出版者名を「宅間命郷」に変更しつつ、表題に「[扶桑教の神札]」を追記しない(できない)場合は件名か何かに「扶桑教」の名を記載してあることが望ましい――。



2026年1月6日追記(NDLから超速で頂戴した返信をこちらの理解に即してメモ):
『聚珍録』第一篇で拾われていた「扶桑教の神札」に該当する資料(題簽に「諸神御影」とあるもの https://dl.ndl.go.jp/pid/815466/)は「出版者・出版年が異なる複数の図版を1冊に合冊したもの」で、このうち「大国玉神・事代主神」(https://dl.ndl.go.jp/pid/815466/1/3 コマ左)の出版人(のみ)が宅間命郷で、図1-93-1相当の画像(https://dl.ndl.go.jp/pid/815466/1/3 右)は図中に「扶桑協会蔵版」とある。更に「大和神社御祭典神輿渡御之図」(https://dl.ndl.go.jp/pid/815466/1/6)は「大和神社社務所蔵版」。
頂戴した返信によると「当時のルールでは、三者以上の出版者が存在する場合、最初に出現する出版者を記録し、「等」と付記すること」となっていたそうで、そのため「最初の図版に表示されている「扶桑教会蔵版」の「扶桑教会」を出版者と見なし、複数の出版者が存在することを示すため「扶桑教会等」と記録したと思われ」、「原則として、データ作成当時のルールに基づいて作成したデータは、明らかな誤りでない限り、そのままとしております」というわけで、本件書誌は現状のままになる由。
勉強になりました。

文化11年(1814)『和蘭文字早読伝授』に見える「明朝様」ほか和洋の印刷文字書体についての解説文が面白かったので翻刻しているうちに活字(うへじ)と活字(くわつじ)の端境期に出会った話

現代の日本で「明朝体」と呼ばれ、中国で「宋体」と呼ばれるこの字様・書体の印刷文字は、日本で、いつごろから、どのようにして、「明朝」と呼ばれるようになったのでしょうか。――という疑問について、ここ数年、幕末から元禄に向かって次のように遡ってきていました。これは同時に、「一字印」「植字」などという呼び方が「活字」という呼び方へと切り替わっていく過程を探る道にもつながる話となっています。

「近代和文活字書体史・活字史から19世紀印刷文字史・グローバル活字史へ」で紹介した、現在の用法と全く同じ意図であることが確実である「明朝」という語彙の現時点での最古の用例が元文年間1740年代に書かれた指示書「板下の文字ニ候間明朝流之板行流之様ニたてをふとくよこをほそく成様ニ」に見えている(『茨城県史料 近世思想編 大日本史編纂記録』https://dl.ndl.go.jp/pid/9644333/1/53――ということは、何度でも繰り返し強調しておきたいと思うのですが(ついでに日本国語大辞典第2版の「活字」の語誌に疑義があるという話も繰り返し)、それはさておき。

水戸藩の藩版を手掛けた書肆柳枝軒(小川多左衛門)周辺だけの用語だったかもしれないこの元文年間の「明朝流の板行流」という表現が、いつごろどのように広がっていっていたか。あるいは元文年間に既に一般化していたものなのか。

今回は、天保71836年12月27日の松崎慊堂手録よりも20年ほど遡る、文化111814年刊、田宮仲宣『和蘭文字早読伝授』(秋田屋太右衛門、NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/2533559/)の面白さに気づいた話から、田宮仲宣『愚雑俎』(前篇文政51822年・後編天保41833年)の重要性に気づくまでに至る話。

田宮仲宣『和蘭文字早読伝授』扉(国会図書館デジタルコレクションより)

和蘭文字早読読伝授』とはどのような本か

前掲の扉へ次のように書かれている通り、『和蘭文字早読読伝授』の前半には平仮名とそのローマ字書きが中央から扉側に向かって展開され、後半には諸解説が奥付に向かって記されています(活字翻刻NDL古典籍OCR-Liteの結果を筆者調整〔以下同〕、原文国会図書館デジタルコレクション:https://dl.ndl.go.jp/pid/2533559/1/2

おらんだのもじはひだりよりみぎへよこによむはうゆへ
おくより〓の方へよこによみならふべし女子ぢよしのよみおぼへ
やすきやうに本朝につほんの七ツいろはのれいじゆんじ同じかな
阿蘭陀おらんだ文字もじをよせしもの也
此書の内にても本朝の文字
は常の通上より下へ右よりよむ也

そうして本書の中ほどから展開されている「和蘭文字いろは表」の冒頭が、次のものです。

田宮仲宣『和蘭文字早読伝授』和蘭文字いろは表冒頭(国会図書館デジタルコレクションより)

国会図書館電子展示会「江戸時代の日蘭交流 第2部3」では当時のオランダ語の入門書として『和蘭文字早読伝授』と、大槻玄沢撰『蘭学階梯』(天明81788年)、吉川良祐編『蘭学佩觽』(芝蘭堂家塾、文化81811年――寛政71796序に解説を加えた再刻版)が掲げられています(https://www.ndl.go.jp/nichiran/s2/s2_3.html)。

蘭学全般の入門書としては日本で初めて刊行された」(「江戸時代の日蘭交流 第2部3」https://www.ndl.go.jp/nichiran/s2/s2_3.html#h5_11という大槻玄沢撰『蘭学階梯』は乾坤2冊に分かれていて、坤巻にオランダの文字や数字についての解説が含まれています早稲田大学図書館古典籍総合DB https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko08/bunko08_c0001/index.html。また、この「オランダの文字や数字についての解説」部分のみをコンパクトな折本に纏めたものという風に見えるのが吉川良祐編『蘭学佩觽』(芝蘭堂家塾、文化81811年――寛政71796序に解説を加えた再刻版)早稲田大学図書館古典籍総合DB https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ho10/ho10_02056/index.html

和蘭文字早読伝授』は後者の類書ということになりそうで、「江戸時代の日蘭交流 第2部3」の解説によると、「著者の田宮仲宣(橘庵1753?-1815)は蘭学者ではなく、洒落本・随筆作者として知られる。上方で活動し、多方面の著作がある。」とのことhttps://www.ndl.go.jp/nichiran/s2/s2_3.html#h5_13

松田清「神田外国語大学附属図書館所蔵 洋学文庫に見る日本文化」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、159-205頁、2017年、https://kuis.repo.nii.ac.jp/records/1420)によると、和蘭文字早読伝授の「アルファベットの七つの書体は藤林普山の『訳鍵凡例附録』(跋文化七年二月)に依拠したと思われる」とのこと(169頁)。国立国語研究所蔵日本語史研究資料の『訳鍵凡例并附言』には確かにアルファベットの「十体字様」として字様(書体)の見本と字様の名称が掲げられていますhttps://dglb01.ninjal.ac.jp/ninjaldl/bunken.php?title=yakkenhanrei 5丁オ・ウ-6丁オ)

東京外国語大学附属図書館第11回特別展示『「横文字いろは」―幕末・明治初期の西洋語紹介』の展示会記録・解説(〔2010年11月〕PDF:https://www.tufs.ac.jp/library/wp-content/uploads/sites/5/2021/04/tenji11.pdfは、『和蘭文字早読伝授』について、次のように記していました。

これ――(引用者注:『蘭學階梯』の刊行)――を機に珍し物好きの庶民相手にちょっとした「横文字」ブームがおきた。戯作本や着物の紋(家ごとに定まった定紋とは別に遊びで用いる「風流紋」)などに、「横文字」書きの日本語が出現したのである。そうした流れの中で、当時の寺子屋教科書の一タイプ「七ついろは」の体裁を借りて「横文字」を紹介するものが現れた。展示の『和蘭文字早讀傳受(おらんだもじ はやよみでんじゅ)』がそれである(1814 初刊)。

著者の田宮仲宣は蘭学者ではない。実はこの本には種本があるのである。大槻玄沢蘭学塾では、当時の日本人が意識していなかった母音・子音の別を体得させるため、行・列で子音・母音がほぼ共通して現れる五十音図でローマ字表記を学ばせ、和歌をローマ字書きする練習を繰り返させた後、はじめてオランダ語の学習に入ったという。大槻玄沢の長男玄幹編の『蘭學佩觿(らんがくはいけい)』は、そのために五十音図でローマ字を示したものだが、その五十音図をイロハに組み替えるという形で改編したのがこの『和蘭文字早讀傳受』だったのである。

大槻玄幹編『蘭學佩觿』の「五十音」図(早稲田大学図書館古典籍総合DBより)

『大坂本屋仲間記録』によると、文化91812年11月20日例の秋田屋太右衛門から願本が届け出られ(記録第2巻573頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12277267/1/294、翌10年7月7日に御聞済とされ(記録第3巻19頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12277268/1/17、免許が出(記録第11巻205頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12276636/1/110、更に半年ほど後の11年3月20日に上ケ本が納本となったようです(記録第3巻43頁「和蘭文字早読指南」と記載 https://dl.ndl.go.jp/pid/12277268/1/29。『和蘭文字早読伝授』の奥付に「文化十一稔甲戌春」とありますがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2533559/1/31、この「春」は「3月」のことというわけですね。

欧文書体見本としての『和蘭文字早読伝授』・『蘭学佩觽』・『訳鍵凡例并附言』

三者とも、現在の私たちが言う意味での「書体」の違いに加えて、大文字と小文字の違いも区別する観点で「違う体」として並べられています。『和蘭文字早読伝授』はこの観点で7種、『蘭学佩觽』は8種が例示されています。『訳鍵凡例附録』は10種を例示すると述べていますが、まともな例は8種までと言ってよいでしょう。各々が示す文字の見本とその名称を比べてみます。

和蘭文字早読伝授伝授の書体名蘭学佩觽佩觽の書体名 訳鍵凡例并附言訳鍵の書体名
メルクレッテルメルクレッテル メルクレッテル
ロームスレッテルロームスレッテル ロームスレッテル
テレツキレッテルテレツキレッテル テレツキレッテル
ドルクレッテルドルクレッテル ドルクレッテル
イタリヤアンスレッテルイタリヤンスレッテル イタリヤーンスレッテル
イタリヤアンスホウフトレッテル(イタリヤンス)ホーフトレッテル イタリヤーンスホーフドレッテル
ホウフトテレツキレッテル(テレツキ)ホーフトレッテル ホーフトテレツキレッテル
(ドルク)ホーフトレッテル ホーフドドルクレッテル
エンゲルセレッテル
「名未詳」

和蘭文字早読伝授』・『蘭学佩觽』・『訳鍵凡例并附言』の3者に共通する部分は、今風に言うと「ローマン体」の大文字小文字、「筆記体」の大文字小文字、「イタリック体」の大文字小文字、そして「亀の子文字フラクツール」の小文字という具合です。「七ツいろは」の体裁を取るために『和蘭文字早読伝授』では「亀の子文字フラクツール」の大文字が不採用となってしまったわけですね。

和蘭文字早読伝授』は、和蘭文字いろは表冒頭に続く見開きで、次のように「大意」を解説しています(原文:https://dl.ndl.go.jp/pid/2533559/1/20

右行みぎのくだりのいろは清濁音せいだくおんあわせて八十七字をしるす日本にてはにごり
てんとて「゛」め此点をそへ自在じざい清濁すみにごりわけぬれど漢土から
天竺てんぢくはじめ天地てんちの間に文字もんじあるほど國々くに〴〵みな清濁すみにごり文字もんじ
べつあるゆへ此蘭字おらんだいろはもかな文字もじながら多しとしるべし
此外に開合かいがう清濁せいだくあはせて五十見へはべれど本朝ほんてうひと
喉舌〓のぜつ不合かな〓ず侏離しゆり缺舌けつぜつはなはだしきものなれば此しよかきはべる
ことわざよめざればかけけず不書則かけざれば不讀よめずといえるがゆへ書覚かきおぼ
やすきやう省略せいりやくす扨此しよ灌頂くはんてう入門にうもんとししかして蘭学らんがく佩觽ていけい階梯かいてい
二部のしよ熟覧ぢゆくらんすれば蘭字らんじよむことすみやかにして指掌たなごころをさすがごとし

一のすじ二のすじ三のすじ四のすじ五のすじ六のすじ七のすじ
メルクレツテルロームスレツテルテレツキレツテルドルクレツテルイタリヤアンスレツテルイタリヤアンスホウフトレツテルホウフトテレツキレツテル

先ほども書きましたが、『大坂本屋仲間記録』によると文化91812年11月20日例の秋田屋太右衛門から願本が届け出られているのでした(記録第2巻573頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12277267/1/294。――ということは、同年夏ころか、いや春先か、ひょっとすると正月早々に、この秋田屋太右衛門(大坂の本屋プロデューサー)と、大坂から京都に戻っていた盧橘庵こと田宮仲宣洒落本作者との間で、次のようなやりとりがあったのではないかと、この一年大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」を見続けていたおかげで妄想が捗ります。

なぜか横浜流星似の本屋プロデューサー
「橘庵先生、近頃流行りのオランダ文字を、こう、市井まち一般ふつう読者ほんずきにも親しみやすく、ちょっと手に取ってみようかいなっていう具合になるような体裁の入門書に仕立てあげる、ちうようなことは出来しませんやろか」
なぜか古川雄大似の盧橘庵
「何です秋太はん、入門書やったら『蘭学佩觽』がありますやんか」
秋太ほんや
「いやいや先生、あれは入門書いうても明朝流の楷書カタカナ交りで板行された、本格的に蘭学をやっていこうっちゅう方々のためのガチの入門書やないですか。そういうのんや無しに、一般ふつうの本の体裁で、和蘭文字についての説明も、もっと細こう親切丁寧に。」
橘庵
「なるほど秋太はんの仰りたいことは何となく分かってきましたワ」

そんなやりとりがあったかどうかは分かりませんが、刊行された『和蘭文字早読伝授』における各欧文書体の説明はどのようなものになっていたでしょうか。

和蘭文字早読伝授』・『蘭学佩觽』・『訳鍵凡例并附言』による各欧文書体の説明

『訳鍵凡例并附言』は書体見本となる一覧表に名称を記載しているのみで、個々の解説は無く、下記概説が示されているのみとなっています(原文:https://dglb01.ninjal.ac.jp/ninjaldl/show.php?title=yakkenhanrei&issue=001 の6オ)

按スルニ諸躰皆同字ナレトモ。之ヲ十様ニ書スルハ。預メ定テ。或ハ官記。或ハ起首。或ハ神符。或ハ典籍。或ハ識号。或ハ日用等ニ分チ絶シ。又多ノ事物論註ヲ雑記スル寸。體ヲ変シテ紛乱ヲ防クカ為ナリ。其呼法モ處ニ因リ同カラズ。

和蘭文字早読伝授』には概説と詳述があり、概説は次のように記されています(原文:https://dl.ndl.go.jp/pid/2533559/1/21 および https://dl.ndl.go.jp/pid/2533559/1/22。強調は筆者によるもの。

まづ「レツテル」と云は文字もんじのことなり第一弾のすじを「メルクレテル」と
いふ大体たいてい和漢わかんもちゆる楷書かいしょごとし第二のすじを「ロームスレツテル」といゝ
第三條を「テレツキレツテル」と云て大体真行草しんぎやうさうのごとし此三体はもつぱら
当時とうじもちゆる故先此三品みしなをよみおほへかきならふべし
元来もとよりおらんだは小國しやうこくなり此文字も歐羅巴えうろつぱ大洲たいしうの諸所
國々くに〴〵字体じていなりおらんだは属国ぞくこくとて琉球りうきう朝鮮ちやうせんなどの清国からしたがひ
ごとき国故和蘭おらんだにてつくし文字にてはなし「イタリヤ」トルコ」イギリス」
フランス」などと云国みな此文字をもちふる也たとへば漢字かんじ本朝ほんちやう
琉球りうきう朝鮮ちやうせんともに通用つうようするがごとし
○七ツいろはと云は児女子じぢよしのつねに覚悟かくごせしものゆへにそれならひ
文字を配当はいとうし児女子の手親てかがみとし口附くちづけしむるなり扨此いろは
引合ひきあはせ文字をよみし上譯鍵やくけんと云しよか有「ハルマ」と云しよに引合
見れば何々と云ことくはしわかるなり「ハルマ」は江戸と泉州いづみにて
出来し活字板うへじばん訳鍵やくけんは京にて出来し板行本はんかうほんいづれも皆
おらんだ字引じびきなり

詳述がある2点のうち『蘭学佩觽』は漢字カタカナ交り文のため原文を拾っていきます。『和蘭文字早読伝授』の活字翻刻は例によってNDL古典籍OCR-Liteの結果を筆者が調整。強調は筆者によるもの。

蘭学佩觽 和蘭文字早読伝授
㊀メルクレツテル體即チ「ローマ」ノ「ホーフトレツテル」ナリ「メルク」ハ記號ナリ「レツテル」ハ文字ナリ「ローマ」ハ地名「ホーフト」ハ首魁ナリ凢一章ノ首又一語ノ首ニ用ユ故ニ「ホーフト」ノ名アリ或ハ端ヲ更タムル事アルニ用ユ諸々書冊ノ表題或ハ畫題扁額及印章等ニ用フ或ハ一篇ノ首ニ用ユルトキハ必スコレヲ大書ス故ニ又「メルク」ノ名アリ按スルニ此體二十六字ノ正體ナリ メルクレツル 一段
ていむかし彼國かのくにの「ローマ」の「ホーフトレツテル」と云ていなり「メルク」とは記號めじるしなり「ローマ」とは國のにしてむかし堯舜ぎやうしゆんひとしきみかど出られし国とぞ「ホーフト」とは物のはじめことの發端ほつたんなりゆへにしやうはしめあるひは一くはんの初にもちはゞ外題げだい書画題しよくはだいあるひは聯額れんがく印章いんしやう表書へうしよに用ゆる正體せいていにて楷書かいしよのごとし
㊁「ロームス・レツテル體今印行ノ書皆コレヲ用ユ ロームスレツテル 二段
印板はんかう書体しよていなり和漢わかんとも書物しよもつ板下はんした楷書しんじはみな明朝様みんちやうやうにておもむきなり近世出来し和蘭おらんだしよいづれロームスレツテルていなりさて和蘭おらんだはみな銅板どうはんやうに思へども左にあらずはいかにも銅板どうばんしよなまり活板うへじはんなり
㊂「テレツキレツテル」體「テレツキハ曳ナリ此平常書讀等ニ用ユル所ニシテ一語ヲ書スルニ必ス數字連綿シテ曳カ如クナリ テレツキレツテル 三段
テレツキとはひくこと也これはつね書翰しよかん日記につきとうに用ゆるていなり文字を數々かず〳〵つらねてかくゆへテレツキと云也
㊃「ホーフト・テレツキ・レツテル」體コレ右體ノ首魁ナリ初學先ツコノ「メルク」ロームス」テレツキ」ノ三體ヲ始メニ書キオホユベシ ホウフトテレツキレツテル 七段
テレツキをもつてホウフトとすたとへば和漢わかん書籍しよじやく表紙へうし見返みかへし篆隷てんれい諸体しよていの大字をしよして標題べうたいとし文借ぶんしよくするものにひとし
㊄ドルク・レツテル」體「ドルク」ハ壓スナリ印行文字ナリ古書ハ皆此體ヲ用ユ今ハ㊁印ノ體ヲ用ユ ドルクレツテル 四段
ドルクとはおすと云ことなり板行はんかうの文字にしてむかしは用ひたれども今は用ゆることまれなりとぞ
㊅ホーフト・レツテル」體」ドルク」ノ體ニ記スル首ニ用ユルナリ
㊆イタリヤンス」體 イタリヤーンスレツテル 五段
イタリヤはくになり皇國につほんしん天竺てんじくなどゝいへるごとき大國たいこくにて其国にもちふる文字也
㊇メルク・レツレル」異體乃チ「イタリヤンス」ノホーフト・レツレル」ナリ メルクレツテル 六段
メルクはイタリヤーンスのホウフトレツテルなりホウフトメルクともに初段のちう

田宮仲宣『和蘭文字早読伝授』「ロームスレツテル」解説(国会図書館デジタルコレクション画像 https://dl.ndl.go.jp/pid/2533559/1/26翻刻文追記)

蘭学佩觽』『訳鍵凡例并附言』の頃には、学問の本は明朝体の漢字カタカナ交りというのが普通の姿になっている――と知識人にとっても市井の人々にとっても受け止められている――ものと見受けられ、「和漢わかんとも書物しよもつ板下はんした楷書しんじはみな明朝様みんちやうやうにておもむきなり」という表現が伝わる状況であったわけですね。

一方で、この時点では「活字」という語に対して「うへじ」というルビを振る――必ずしも「活字という語の読み」を示しているわけではなく、活字という語を(当時の)日常語と考えられている言葉にパラフレーズしている状態:ちょうど宝永期に『舜水朱子談綺』下巻「人倫」の項で「活字」の語に「ウエ字板銅ニテ作ル一名銅板」という語釈をつけているように(https://uakira.hateblo.jp/entry/2022/04/05/172512#sec10――という慣習がまだ抜けていなかったらしいことも興味深いところ。

盧橘庵こと田宮仲宣の随筆に見られる活字うへじ文化21805年)から活字くわつじ天保41833年)への変化

田宮仲宣が盧橘庵の筆名で書いた随筆『橘菴漫筆 貮』(文化21805年序)に、日本の文字印刷の歴史に言及する次のくだりがあります(早稲田大学図書館古典籍DB画像:https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i05/i05_00348/i05_00348_0002/i05_00348_0002_p0006.jpg)。

○本朝にて印板いんはんせしは法然はうねん上人の撰釋集せんしやくしう元久げんきうころ板行はんかうせしよし山門さんもん申状まうしじやうに見へたりとかや足利あしかが学校がくかう活字板うへじばん〓〓〓く小見へたり夢想むさう國師こくしの書をかうの師直もろなふ板行はんかうせしも活板うへじはんなり今の板行は慶長けいてうすへより初りて連綿れんめんたり白石はくせき先生せんせい文禄ぶんろくには天正てんしやうころ一字板を作るとあればいよ〳〵慶長より連綿れんめんたるべし

これは少し時代が下った『和蘭文字早読伝授』(文化111814年刊)でも「活字うへじ」という表現になっていたことから予想された通りです。

多治比郁夫が「大阪の木活字本」(『大阪府立図書館紀要』10号、1974年)で、田宮仲宣が随筆集『愚雑俎』で活字について「損耗が早いから少部数にしか対応できない」旨を書いていることに触れています(93頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1773129/1/51)。そこでは『愚雑俎』が文政51822年刊と書かれていますが、国書データベース経由で東洋大学附属図書館哲学堂文庫所蔵本(https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/300001074/)の奥付を見る限り前篇2巻が文政5年、後編3巻が天保41833年に刊行されていて、「活字板」の話は後編(第5巻)に掲載されている話でした。

ここでは田宮仲宣『愚雑俎』の「活字版くわつじばん」の話を天保の事例として扱っておきたいと思います。私たちの観点では、ルビ抜きで活字翻刻されている『日本随筆大成』第3期第5巻(日本随筆大成刊行会、昭和4年https://dl.ndl.go.jp/pid/1914175/1/106)のような事例で内容を解った気になるのがあまりにも勿体ない資料だと判ったので、全文を原ルビつきで翻刻しておきます(原文は東洋大学附属図書館哲学堂文庫所蔵本のhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/300001074/88?ln=ja および https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/300001074/90?ln=ja

活字版くわつじばん
活字版くわつじばんはう卓吾たくごはうはなはだよし先年せんねん是にならふ銅盤どうばんをうへしに甚よし此活字くわつじ銅版どうばんを大坂高津かうづなる大谷惣兵衛といへる冶工やこうかぢはかりたり清土からにもやう〳〵そう慶暦けいれき年中布衣ふい昇平しやうへいはじめて一字版じばんつくると涌憧ゆうとう小品しやうひんに見へたりとぞしからば印版いんばんは先にして活字版くわつじばんのちの事なり活字くわつじうれひは丁数てうすうおほきものはかずおよばざるうちに文字もんじ摩滅まめつにおよび凢千丁ばかりの物は五十する事かたしこれ同字どうじの内丁ごとにするゆへにによりて二十とはかかりがたしただ好事家かうずかのもてあそびのみ

文化文政期から天保に至る四半世紀ほどの間に、田宮仲宣自身の変化もあったでしょうし、また世の中の変化もあったのでしょう。

世の中の変化によって市井の人々にも「活字版くわつじばん」という表現が受け入れられるようになったという見方を取っておきたいという気持ちがあるのですが、田宮仲宣ひとりの個人的な表現だったりしないのかどうか。

文化・文政期や天保期に刊行されたもので、「活字」についてルビつきで書かれているところがあるような資料をご存じの方がいらしたら、ぜひお教えください。



以下2025年12月18日追記:
SNS郡淳一郎 @khorijunichiro さんから式亭三馬浮世風呂』三編巻之下(文化91812年)の事例をお教えいただきましたhttps://x.com/khorijunichiro/status/2000979024060014927。ありがとうございます。

お教えいただいた日本古典籍データセット国文学研究資料館蔵書を見たところ、次のようになっていますhttps://codh.rois.ac.jp/iiif/iiif-curation-viewer/index.html?pages=200015779&pos=232&lang=ja

けり子鴨子かもこさん。此間はなに御覧こらうじます
かも子「ハイうつぼをよみかへさうとぞんじてをる所へ。活字うゑじぼんもとめましたからさいはひに異同いどうただしてをります。

考えてみれば、まだ仮名遣いが一定していない時期の事例でもあるんですよね、活字うへじとされたり、活字うゑじとされたり。



以下2025年12月23日追記:
平田篤胤『活板 出定笑語』の「活字板出定笑語序」に、次のようにあるのを見つけました。

寫本ワツシマキにてはコヽロザシあるひとにひろくしめさんこといとかたし活字ウヱモジノ板書スリマキにしてこそ」https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100191002/5?ln=ja

国書データベースによると、出定笑語自体の成立は文化81811年頃と考えられているようですが、「活字板出定笑語序」は慶応21866年に記されている模様。テキストの性質を考えると、これは当時の一般的な用法というよりは「和語らしい語彙を併記する」方針で活字ウヱモジという表現が選ばれたものと予想します。ともあれ、「ウヘジ」「ウヱジ」ではなく「ウヱモジ」であるところが興味深いです。

藩政時代の「大坂本屋仲間記録」に見える「植字(板)」と「活字(板)」の語

近世木活字時代の「活字」用例(https://uakira.hateblo.jp/entry/2022/04/05/172512#sec10)として。

植字(板)

植字板願 新靱町桔梗屋十右衛門借屋 儒医 近藤淳二
一 此度植字板之義奉願上候、古書幷ニ新撰之書籍等、未板行不仕候品〻、都鄙共ニ学文修行仕候者、困窮之輩ハ、価高直之唐本和書珍書等、世上ニ沢山ニ相成候ハヽ、人助にも相成候事与奉候間、此度植字板ニ而擦出シ申度奉候、尤書物屋ニ而板行仕候書物ハ、決而擦出シ申間鋪候、陳署好本等ニ而も、此後板行仕度相望、願之趣御聞届遊候分ハ、其品植字ニ而擦出シ申間鋪候、将又唐本落丁入レ、其外端本ニ相成候物等擦足シ候得は、世上ニ捨レ候書物等不残引起シ申候事ニ御座候

  • (本件は本屋仲間との間で何度かやり取りがあった後、最終的に本屋行司が奉行所へ「差し止め」を嘆願する文書の内容が興味深い https://dl.ndl.go.jp/pid/12276434/1/71
  • 寛政4年10月26日「京都行司中ゟ、昨廿五日書状到来、植字本四品紙包ニ而下り、且又植字板所持之書付来候ニ付、披見之上、同夜京都へ返事認出す」(出勤帳11番79丁〔第1巻405頁〕https://dl.ndl.go.jp/pid/12277417/1/211)(この件11月から翌年にかけて引き続き処理)
  • 享和31803年6月23日「播五・泉卯ゟ、万葉集植字板ニ付願書差出し」(出勤帳20番37丁〔第2巻244頁〕https://dl.ndl.go.jp/pid/12277267/1/130)(この件翌文化元年4月頃まで引き続き処理)
  • 安政21855年6月28日「古帳面類之内ゟ、古万葉集植字板帳面も漸見当り出、一統安心之事」(出勤帳57番93丁〔第5巻158頁〕https://dl.ndl.go.jp/pid/12276817/1/87

活字(板)

  • 嘉永71854年5月18日「安井様ゟ、朝五つ時迄、先御表立与申訳ニ而も無之候得共、過急之事ニ付宅ゟ呼懸候旨御断有之、然処校定常陸帯ト(ママ)全四冊、活字板ニ而出来、此頃流布致候、右は何方ニ而板行出来候哉、幷ニ売出し候者仲間之内有之旨被仰候」云々(出勤帳56番45丁〔第5巻93頁〕https://dl.ndl.go.jp/pid/12276817/1/54
  • 嘉永7年5月(第8巻405-406頁に上申書あり https://dl.ndl.go.jp/pid/12276434/1/210

一 校定常陸帯 活字板 全四冊
右書、此頃御当地ニ流布仕候趣ニ付伝来御尋御座候、此儀右書物者活字板ニ而、全四冊京都東洞院四条上ル町梯晋蔵与申方ニ而、蔵板出来候由及承候ニ付、此段奉申上候、以上
 嘉永七寅年五月十九日 本屋行司印

  • 安政31856年4月5日「右同人(引用者注:河新)、桑華新話壱冊、素人蔵版売弘願出候得共、本文活字板ニ付、是迄活字板売弘聞届遣候例無之、差戻し候也」(出勤帳58番60丁、〔第5巻187頁〕https://dl.ndl.go.jp/pid/12276817/1/101
  • 文久1861年6月3日「浅沼修平、活字ニ而済世三方板かけ居被申、其儀大ノ木氏尋有之候間乍序伺候処、此儀ハ跡廻しニ致、江戸杉田へ引合不致様一寸溜置可申様被仰候也」(出勤帳62番75丁、〔第5巻451頁〕https://dl.ndl.go.jp/pid/12276817/1/233
  • 文久1861年6月6日「近伊呼掛、活字板所持之由ニ付段〻聞調候処、一向申条相立かたく、何分評定之上追而可申聞様引取らせ候事」(出勤帳62番83丁、〔第5巻454頁〕https://dl.ndl.go.jp/pid/12276817/1/235
  • 文久1861年6月9日「近江屋伊介、代人ヲ以活字板間一袋ト箱拾壱、右此間ゟ京都へ省略ニ参り、漸〻長浜屋市右衛門方ニ在之、則持帰、今日差出し申候、代人故何ニも得答不申候事」(出勤帳62番90丁、〔第5巻457頁〕https://dl.ndl.go.jp/pid/12276817/1/236

大阪活版所(大坂活判所)開業準備時に書籍販売を任せようとしていた「秋田屋」はどの秋田屋か『大坂本屋仲間記録』に手がかりを探す

3年ほど前、明治期に「古印風」活字を生み出した活版製造周拡合資会社の周辺情報を調べていた際、大阪府中之島図書館『大坂本屋仲間記録』第7巻(1985)に前田菊松や瀬戸清次郎、大阪国文社の開業登録が記録されていることに驚いたわけですが――そして『大坂本屋仲間記録』が2025年6月に国会図書館デジタルコレクションの送信資料に加わってくれてとても便利になったことに喜んでいるわけですが(前田の開業は7巻398頁〔出勤帳88番25丁〕明治21年10月26日に記録されています:https://dl.ndl.go.jp/pid/12277269/1/207――。

今頃になって、幕末から明治初期(具体的には文久元年6月から明治5年8月)までの「出勤帳」が翻刻掲載されている『大坂本屋仲間記録』第6巻をちゃんと見ていなかったということに気がついたので、国会図書館デジタルコレクションの送信資料になっていないこの第6巻を東北大学附属図書館から借り出し、まずは明治2年12月19日から始まり明治3年7月25日付で終わる「出勤帳」72番から、ざっと眺めてみました。

特に大阪活版所(大坂活判所)が開設された時期と思われる明治3年3月から7月までの記載は注意深く眺めたつもりですが、活版所(活判所)に関係しそうな記述はありません。

さて、先日来話題にしている通り、小松帯刀所蔵『二十一史』復刻を軸として準備が進められていた大阪活版所(大坂活判所)開業にあたって本木昌造らと五代友厚が互いに示しあった条件と思われる覚書(草稿)6箇条の中に、次のようなことが記されていました(翻刻原文:日本経営史研究所『五代友厚伝記資料』(1971年、東洋経済新報社)第4巻197頁「(翻刻)一八二」(NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/12256546/1/104)。

  • 「二十一史」完成までは、これ以外の書籍の売上金の5%を(五代側に)納めること【二十一史摺立候迄ハ、外書籍売高の五歩、冥加差出候事】。
  • 書籍の売りさばきは秋田屋に任せること【書籍捌方は、秋田屋へ支配為致候事】。

この「秋田屋」は、明治3年4月に大坂医学校による官版『日講記聞』売弘届を出すなどしていた「秋善」(『大坂本屋仲間記録』第6巻394-395頁)こと秋田屋善助でしょうか(早稲田古典籍DB:https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ya04/ya04_00681/ya04_00681_0001/ya04_00681_0001_p0034.jpg。それとも、明治10年頃のことになりますが、東京で刷られた活版印刷物である『公法便覧』(NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/788979/1/325や『團團珍聞』(NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/11209952/1/8売捌き等にも柔軟に対応していた秋田屋市兵衛でしょうか。

藩政時代から大坂で書籍商を営んでいた秋田屋

井上和雄編『慶長以来書賈集覧』(彙文堂書店、大正51916年、NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/1870968/1/13)を坂本宗子が増訂した『増訂慶長以来書賈集覧』(高尾書店、昭和451970年)で本文と巻末リスト(NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/12278150/1/76)から拾い出してみたところ、藩政時代から大阪で活動していた書籍商「秋田屋」には次のものがあったようです。

慶応3年の『増補浪花買物独案内』では、「ほんや」として次のような「秋田屋」が紹介されています(大阪大学附属図書館石濵文庫蔵、国書データベース https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100270073/ の19コマ~23コマ)。

  • 秋田屋市兵衛(書物江戸積問屋/唐本和本/古本売買)
  • 秋田屋太右衛門(書物江戸積問屋/唐本和本/古本売買)
  • 秋田屋善助(唐本和本 書物売買所)
  • 秋田屋幸助(唐本和本 書物売買所)

「独案内」の4軒は「集覧」の11軒に全て含まれているわけですが、この4軒を候補と考えて良いでしょうか。『大坂本屋仲間記録』で各々の活動始期をチェックしてみました。

  • 秋田屋市兵衛は、「出勤帳 1番」の頃から大坂の本屋仲間であり、遅くとも明和31766年からは行司を務めるなどしていた模様(「出勤帳 1番」44丁〔『大坂本屋仲間記録』第1巻「出勤帳 1」19頁〕https://dl.ndl.go.jp/pid/12277417/1/18*1
  • 秋田屋太右衛門は、文化21805年10月に仲間に加入している模様(「出勤帳 21番」100丁〔『大坂本屋仲間記録』第2巻「出勤帳 2」301頁〕https://dl.ndl.go.jp/pid/12277267/1/158
  • 秋田屋善助(善介)は、太右衛門の関係者らしき人で、安堂寺に出していた「箱店」をいったん畳んで改めて天保81837年6月に仲間に加入したうえで出店した模様(「出勤帳 49番」42丁〔『大坂本屋仲間記録』第4巻「出勤帳 4」404頁〕https://dl.ndl.go.jp/pid/12277002/1/210
  • 秋田屋幸助は、元は太右衛門方の関係者らしき人で(「出勤帳 49番」51-52丁〔『大坂本屋仲間記録』第4巻「出勤帳 4」408頁〕https://dl.ndl.go.jp/pid/12277002/1/212天保111840年3月に仲間に加入した模様(「出勤帳 51番」113丁〔『大坂本屋仲間記録』第4巻「出勤帳 4」535頁〕https://dl.ndl.go.jp/pid/12277002/1/275

東北大学附属図書館から借りてきた『大坂本屋仲間記録』第6巻で、元治2年正月として始まった大坂本屋仲間「出勤帳66番」から、明治2年12月17日までを記す「出勤帳71番」までの範囲を眺めてみたところ、次のようなことが見えてきました。

この4名の他にも秋田屋一党で名が出ていた者がありました。

  • 秋良こと秋田屋良助、慶応元年10月に「仲間退」とし板木の大半や株を「秋善」管理としたい旨の願い出あり。更に慶応4年6月に「休商届」。
  • 秋復こと秋田屋復三郎、慶応2年12月「実印漸〻出来候」。
  • 秋彦こと秋田屋彦助、慶応3年12月、慶応4年5月、明治2年3月に記録あり。
  • 秋確こと秋田屋確蔵、明治元年10月、「英国歩兵練法と申全九冊物、薩摩軍局方ニ蔵版ニ出来、右売弘之儀」で「御裁判所」へ伺出(この件、同年11月、明治2年1月にも引き続き)。明治2年10月から12月、「楽山堂詩鈔」と「皇道要略」の件。

さて、というわけで。本命を秋田屋確蔵(薩摩蔵版『英国歩兵練法』の大阪での販売を企図していた)、対抗を秋田屋市兵衛(秋田屋一党の本家であり明治初期の本屋仲間で年行司も務めていた)、という具合に見るのが良かろうと思われたわけなのですが。

実際に現存している『重訂英國歩兵練法 號令詞』には「製本所:吉田源左衛門(薩摩)/秋田屋田右衛門(大坂)」とあるようで(https://opac.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/opac/opac_details/?lang=0&opkey=B176511204838820&srvce=0&amode=11&bibid=2002780757)、また『重訂英國歩兵練法』も巻末は「製本所:吉田源左衛門(薩摩)/秋田屋太右エ門(大坂)」とあることから(https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100231271/576?ln=ja)、実際の本命は秋田屋太右衛門で対抗が市兵衛、大穴が確蔵――ということになるでしょうか。


以上、そのままの形では実現しなかった五代友厚本木昌造の企画「活判所取建に関する覚」(二十一史復刻に関する覚書、https://dl.ndl.go.jp/pid/12256546/1/104)の話題を扱いながら、大阪府中之島図書館『大坂本屋仲間記録』の大半が国会図書館デジタルコレクションの送信資料となってくれたことの喜びを噛みしめているのでした。

*1:蒔田稲城著・出版タイムス社編『京阪書籍商史』(出版タイムス社、昭和4年再版)第2章「大坂本屋仲間の創制」によると、秋田屋市兵衛は、元禄から享保にかけて成立しつつあった最初期の24人の「仲間」のうちの1人であった模様――少なくとも「享保91724年正月の記録」にある当初の組合員に含まれています(15-16頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1258728/1/111)――。